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記事・コラム 2025.11.25

プロフェッショナルインタビュー

第2回 「小さい診療科の方が教授になりやすいかもしれないと考えました。」北里大学北里研究所病院 副院長 石井良幸先生

話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!

どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。

【出演番組一部抜粋】
BS朝日「命を救う!スゴ腕ドクター」

今回は【北里大学北里研究所病院 副院長 一般・消化器外科部長】石井 良幸先生のインタビューです!
慶應で外科の礎を築き、がん研究・米国留学を経て北里大学教授へ。
研鑽と挑戦を重ね、臨床・研究・教育で医療の最前線を牽引する外科医の歩みなど、語っていただきました――。

テーマは 第2回「医師を目指す」をお話しいただきます。

プロフィール

名前
石井(いしい) 良幸(よしゆき)
病院名
北里大学北里研究所病院
所属
副院長、一般・消化器外科部長、北里大学医学部教授(下部消化管外科学)
資格
  • 日本外科学会外科認定医・専門医・指導医
  • 日本消化器外科学会認定医・専門医・指導医
  • 日本消化器外科学会消化器がん外科治療認定医
  • 日本大腸肛門病学会専門医・指導医
  • 日本内視鏡外科学会技術認定医(消化器・一般外科)
  • 日本消化器内視鏡学会消化器内視鏡専門医
  • 日本がん治療認定機構がん治療認定医・暫定教育医
  • 難病指定医
  • 身体障害者福祉法指定医
  • 痔核ジオン注使用認定医など
経歴
  • 1966年東京都台東区で生まれる。
  • 1991年慶應義塾大学を卒業後、慶應義塾大学病院で外科研修医となる。
  • 1995年慶應義塾大学医学部外科学教室の助手となる。
  • 1996年国立がん研究センター研究所に出向する。
  • 1998年慶應義塾大学医学部外科学教室の助手となる。
  • 2001年6月から9月まで、米国Cornell大学に留学する。
  • 2003年慶應義塾大学医学部包括先進医療センター助手を経て、2004年に慶應義塾大学医学部外科学教室の助手となる。
  • 2009年慶應義塾大学医学部外科学教室の専任講師に就任する。
  • 2014年北里大学北里研究所病院消化器外科部長に就任する。
  • 2016年北里大学医学部外科学教授に就任する。
  • 2017年慶應義塾大学医学部客員教授に就任する。
  • 2018年北里大学北里研究所病院副院長を兼任する。

第2回 医師を目指す

─ ご出身はどちらでいらっしゃいますか。

東京都台東区の雷門の近くです。父は日本料理の料理人をしていました。

─ 医師を目指すようになったのはいつ頃だったのですか。

はっきりとではないのですが、小学生のときですね。その頃、『ブラック・ジャック』が出版され、友だちが全巻買っていたので、私もそれを友人宅で読んで、ハマりましたね。ブラック・ジャックがメスでどんな病気でも治してしまうことに感銘を受けたのが医師という職業を目指したきっかけです。ブラック・ジャックは悪人っぽいのですが、実は優しい人であり、医療というもののシビアさや難しさを伝えながら、人を助けていくという姿に惹かれました。

─ それ以来、ずっと医師を目指されていたのですか。

ものづくりが好きだったので、高校のときは建築を学びたいという気持ちがありました。私は中学校から慶應の附属に通っていたのですが、慶應義塾大学には建築学科がなかったんですね。建築といえば早稲田大学が有名でしたので、早稲田を受けてみようかなとも思いましたが、今さら外部受験かという思いもありまして(笑)、小さい頃に目指していた医師を改めて目指そうと決め、医学部に進学しました。

─ どのような学生生活を送られましたか。

高校では部活動をせず、帰宅部といえばそれまでですが、試験前は集中して勉強をしていました。それで大学では難しいスポーツをしてみたいなと思い、アイスホッケー部に入り、6年間、活動していました。

慶應医学部のアイスホッケー部は日本にアイスホッケーが入ってきたときに逸速くできたチームで、長い歴史があります。関東大学アイスホッケーリーグ戦という大会が毎年あるのですが、他大学は大学ごとに1チームなのに対して、慶應は医学部アイスホッケー部の歴史が長いゆえに、医学部と本学の2チームの参加が認められています。

一般的には医学部のチームは医学部の中での大会に出るのですが、アイスホッケーだけは医学部でない大学のチームと試合ができることが魅力でしたね。その当時は強かったですし、練習は厳しく、辛いものがありました。

大学生活では本当にアイスホッケーしかしていないのですが、部員同士やOBとの繋がりが強く、外科に進む人も多かったです。根性だけが身につきましたね(笑)。

サムス杯争奪第39回全日本医歯薬科大学アイスホッケー大会で優勝(右端)

─ ハードな練習だったのですね。

そもそも練習時間が真夜中なんです。日中の良い時間帯はお子さんたち、少し暮れてくると社会人や大学生の女子たちがスケートリンクを使うので、アイスホッケーは夜になります。その中でも学生や社会人などの強いチームがいい時間帯を取るので、弱いチームは夜中の12時から2時までのような割り振りになっており、夜中に活動するゴキブリのような生活でした(笑)。

その分、昼間は寝ていましたね。練習場所も当時は品川や池袋、高田馬場にリンクがありましたが、そのあたりが取れないと東伏見や松戸、横浜まで行っていました。練習時間が電車のある時間帯ではないので、車を持っている部員の車に乗り合って移動していました。

サムス杯争奪第39回全日本医歯薬科大学アイスホッケー大会でベストゴールキーパー賞を受賞
慶應義塾大学医学部アイスホッケー部のOBの先生方との写真(左端)

─ 外科を目指すようになったのはいつですか。

私は手先が器用だと自負していましたし、ものづくりも好きでしたので、学生のときから外科系に行きたいとは思っていました。それで外科のほか、整形外科や形成外科も考えていました。

─ 最初は一般・消化器外科を学ばれたのですか。

当時は卒業と同時に希望の診療科に入り研修することになっていました。卒後1年間は母校の大学病院で研修することが一般的でした。慶應は外科というと外科学教室という大きな教室になっていて、その中に一般・消化器外科、呼吸器外科、心臓血管外科、小児外科、脳神経外科の5診療科が入っていました。卒業した時点で外科学教室に入ることを宣言し、1年間の研修が終わったあとか、1年間の研修後の2年間の外部の病院での研修が終わったあとかに、5診療科の中のどの科に行くかを決めるというパターンが多かったです。

─ 先生はどちらのパターンを選ばれたのですか。

私は寄り道をしたんです。1年間の研修が終わったときに脳神経外科に入るという宣言をして、脳神経外科医として、1年間、足利赤十字病院に出張しました。脳神経外科を選んだのは、よく分かっていないことが多い、未知な領域である脳を解明していきたいという思いが強かったからです。

それから功名心みたいなものもありました。小さい規模の診療科のほうが教授になれるチャンスが多いのかなとも考えたんです(笑)。それで足利赤十字病院に行ったのですが、行ってみると外傷の患者さんがほとんどでした。当時は交通事故が多く、頭を骨折して運ばれてくるような症例ばかりで、私がイメージしていた脳神経外科とは違うなと感じ、1年の勤務を終えたあとで「一般・消化器外科に転科します」と再宣言しました。