講師 中村 清吾 先生
昭和大学乳腺外科教授・ブレストセンター長
1956年に東京都台東区で生まれる。1982年に千葉大学を卒業後、 聖路加国際病院外科でレジデントとなる。1987年に聖路加国際病院チーフレジデントを経て、1989年に聖路加国際病院外科医幹となり、乳がんクリニックを担当する。1993年に聖路加国際病院病院情報システム室室長を兼任する。1997年にAmerican Council for SLIMC基金により、M.D.Anderson Cancer Centerで研修を行う。聖路加国際病院外科副医長を経て、1999年にMcMaster大学でEBM研修を行う。2003年に聖路加国際病院外科医長に就任し、管理医長を兼任する2005年に聖路加国際病院ブレストセンター長、乳腺外科部長に就任する。2006年に聖路加看護大学臨床教授兼務、2008年に千葉大学医学部臨床准教授兼務を経て、2010年に昭和大学医学部乳腺外科教授に就任する。
日本外科学会指導医、日本消化器外科学会認定医、日本外科系連合学会フェロー、日本乳癌学会乳腺専門医、同理事として、保険診療委員会委員長、診療ガイドライン委員会委員長を歴任。現在、国際委員会委員長、BSI(Breast Surgery International) council member
医師を目指したきっかけからお聞かせください。
実家は浅草に約100年続いた鍼灸院で、私が4代目になります。私が幼い頃の鍼灸院には整形外科のリウマチ治療や腰痛治療などの通常の医療から見放された人たちがいらしていました。整形外科での紋切り型のリハビリや痛み止めの薬では効かない人でも、痛みの由来が精神的なものであれば、話を聞いてあげるだけで解決することもあります。私自身も風邪のときは灸を据えられたこともありました。そういう環境で育ったので、私は医療を別の角度から見ていたのかもしれません。大学に入って医学を学び、鍼や灸がなぜ効くのかを知りたいという思いがまずありました。
どんな学生時代を過ごされましたか。
千葉大学に入学し、東洋医学研究会というサークルに入りました。そのサークルで漢文の読み合わせをしたりしながら、大学に入った目的である「東洋医学はなぜ効くのか」というテーマを突き止めようとしていました。そんなときに、東大の物療内科にいらした高橋晄正先生の『漢方の認識』を読んだのです。高橋先生は中国何千年の歴史の中に伝わる漢方薬が本当に有効かどうかは臨床試験をしないと分からないと書いていらっしゃり、コンピューターを使って大規模な試験を行うことの必要性を訴えておられました。そこで、私はコンピューターを学ぶことを決意したんです。大学1年生の後半でしたから、まだパソコンの前のマイコンの時代で、ディスプレイに文字も出ないようなものでしたが、秋葉原に通って手に入れました。これで自分のやりたいことができるようになるかもしれないという気持ちで一杯でしたね。
コンピューターにどんなことを入力されたのですか。
後漢末期から三国時代にかけて張仲景が編纂した『傷寒論』では、うなじが凝ったり、発熱で震えが起きた場合に葛根湯を勧めていますが、こういった症状をコンピューターに入力し、ロジカルに分析を行えば、どんな症状の人にどんな薬が有効なのかを示すことができるのではないかと思ったのです。そこから人工知能(アーティフィシャルインテリジェンス)にのめり込んでいきました。いわゆるパソコンおたくですね(笑)。漢方薬や東洋医学からコンピューターを使った医療や医学へと、興味が180度、変わりました。
外科医師を志したのはいつでしたか。
コンピューターを使う人工臓器としては心臓やすい臓がありますが、そういった臓器に詳しくなるためにまずは外科を専攻しようと思ったんです。卒業してすぐに人工臓器の研究を始めることはできませんから、卒後4年間は外科のトレーニングを幅広く行うつもりで、聖路加国際病院を研修先に選び、4年後には東大でメディカルエンジニアリングを学ぼうと考えていました。ところが、外科の研修が始まっても、日本では移植が実現される見込みはなく、海外留学をされていた聖路加の先輩方も志半ばに戻ってこられるのを目の当たりにしていました。
乳腺外科を専攻された理由はどのようなものだったのでしょうか。
医師になって3年目ぐらいでしたか、外科手術を覚えてきた頃のことです。大阪の患者さんで、アメリカでセカンドオピニオンを受けてこられた方が来院されました。その患者さんは日本で乳房切除を勧められたのですが、アメリカに行ったら、乳房温存手術が主流であると知ったそうなんですね。そこで日本で乳房温存手術を行いたいと、聖路加出身でロサンゼルスで開業されていた先生から紹介を受け、聖路加に来院されたとのことでした。しかし、聖路加では乳房温存手術を1例も行ったことがなく、当時の文献を調べ、カンファレンスを重ねました。そのとき、乳がん手術が乳房切除から乳房温存へとパラダイムシフトにあることを知ったのです。そして1984年にその患者さんの乳房温存手術を行いました。
1985年に『The New England Journal of Medicine』にフィッシャー先生の論文が掲載されました。大規模な臨床試験を必要とする医学雑誌で温存療法の有効性が示されたことで、温存療法は一気にメジャーになりました。私も徐々に人工知能への夢が薄れていったんです。乳がんは切除手術以外にも、温存療法やホルモン療法、化学療法など、様々なオプションがあります。外科にも漢方にも東洋医学にも流派がありますが、私としてはその中の真実を知りたかったので、医学を学んだのです。この頃、初めて乳がん領域でやってみたいことが展開しており、興味がシフトしていきました。
それでも、1993年に病院情報システム室室長に就任なさっていますね。
コンピューターを使った仕事をしていきたいという気持ちも強かったんです。聖路加の新病院が1992年に完成し、新しいシステムの責任者になったのですが、外科医の立場でありながら、検査部門や病理部門など、あらゆる領域のスタッフと折衝を行ったことが後にチーム医療を展開するうえで非常に役に立ちました。病院には縁の下の力持ちが大勢います。病院の機能を動かすために働く人たちとの付き合いが始まったことで、チーム医療のマインドが培われましたね。
その頃は一般外科もなさっていたのですよね。
一般外科での腹腔鏡の手術と乳がんの手術が半分ずつぐらいでした。そのうち乳がんが徐々に増えていったんです。乳がん治療は長期間のフォローアップが必要です。そのためには情報を集約し、データベースを作っておかなくてはいけません。そこで、乳がんの患者さんを適切に診療するための全体のシステムを作りたいと考えていました。
アメリカに留学されたきっかけをお聞かせください。
海外の学会で発表するうちに、M.D.Anderson Cancer Centerの存在を知ったのです。ちょうどM.D.Anderson Cancer Centerにブレストセンターができるところで、ブレストセンターなんて現実にあるのかなと不思議な気持ちでしたが、現実に見て、目から鱗が落ちる思いでした。その後、もう一度、渡米したときは聖路加にブレストセンターを作りたいという一心でした。
アメリカ留学で学んだことはどんなことでしたか。
驚いたことが3つあります。まず、再建手術の多さです。乳房を切除したあと、胸が真っ平な人を見かけないのです。ほとんどの患者さんが再建手術をしていたんですね。次にセンチネルリンパ節生検が積極的に行われていたことです。日本では全ての患者さんに対してリンパ節を郭清していたのですが、アメリカでは郭清を回避していたんですね。3つ目はしこりに触っても分からないことです。マンモトーム生検が普及し始めており、ニューヨークの病院で導入されたと聞き、見学に行きました。私としてはこの3つを日本に導入したいと思いましたし、チーム医療の必要性も強く認識しました。
アメリカで学ばれたチーム医療とはどのようなものでしょうか。
アメリカでは一人の乳がんの患者さんを内科医、外科医、放射線診断医等が一緒に診ますし、看護師、薬剤師も医師同様の仕事をしていました。薬剤師もモルヒネで便秘になった患者さんに薬を出すことなど、医師とフラットな関係で自分の専門の立場から意見を述べるんですね。日本にはどうしてもヒエラルキーがありますが、アメリカは一つの輪ができていて、その中心に患者さんがいるんです。当時、聖路加の日野原重明先生もチーム医療が必要だとおっしゃっていましたが、乳がんの領域では具現化には至っていませんでした。私はアメリカで具体的な姿を見て、これを日野原先生に報告しようと思っていました。
そして、聖路加国際病院に乳腺外科が誕生しました。
帰国後、1、2年は消化器外科医でもあり、乳腺外科専門になるまでの過渡期でした。しかし、乳腺外科を極めるためには腹腔鏡手術を封印しなくてはならないと思うようになり、2003年に乳がんだけを担当するようになったんです。そして、2005年にブレストセンターが開設されました。若い医師が消化器がんと乳がんを半分ずつ担当するのは教育上、良くないですし、ちょうどハートセンターがクローズしたので、そのあとに入りました。病院には「ハートをブレストに替えるだけだから」と言って、納得してもらいました(笑)。場所が狭くて、スタッフからは反対の声も上がりましたよ。
乳腺外科として独立することのメリットはどんなところにありますか。
看護師と薬剤師が専門性を発揮できます。外科所属ですと、乳がんの患者さんもいれば、人工肛門の患者さんもいますし、小児外科で泣いている子どもさんもいます。コメディカルがその全てに対応するのであれば、いくら認定看護師であっても能力が発揮できませんからね。乳腺外科として独立すれば、乳腺だけを考えればよいことになるし、患者さんも専門性の高い施設で診てもらえるメリットがあります。医師と一緒に、看護師や薬剤師が見守ってくれるのはいいものですね。ブレストセンターが独立した当時の来院患者数は年間400人でしたが、500人、600人と増え始め、私が退職する頃には800人にまで伸びました。800人という数字はそれ以上に多くなると、ほかの部門が疲弊しますから、総合病院の一部門としてはマックスでしょうね。
昭和大学に移られたきっかけはどのようなものだったのですか。
若い世代、特に医学生の教育に携わりたかったからです。昭和大学は医系総合大学を謳っており、チーム医療を推進していることにも惹かれました。昭和大学の特徴は1年次に全学部生が富士吉田キャンパスで過ごし、同じカリキュラムで学びます。そのためでしょうか、看護師や薬剤師が聖路加よりも医師とフラットな立場で働いているんですね。これは面白いなと思っています。
昭和大学でもブレストセンターを設立されたのですね。
乳腺外科は単一臓器の疾患ではありますが、乳がんを診ることを通して全身を診る力を養い、全人的に診る姿勢を教えていきたいです。転移や再発にあたっても、脳転移、骨転移、肺転移、肝転移など、それぞれの臓器のことを知らないと管理できません。精神科や婦人科の知識も要求されますし、痛みが出れば緩和ケアの知識も必要です。専門分化が進むと、どうしても縦割りになり、視野が狭くなりますが、チーム医療の中ではいかに横糸を繋いで、お互いの専門性をリスペクトしながらベーシックなことを幅広く行うかが大事です。現在は横糸をうまく繋ぐためのカリキュラムを作っているところです。
乳腺外科医としての遣り甲斐はどんなところにありますか。
腹腔鏡全盛時代の外科医を有頂天にさせる患者さんの言葉は「先生の傷は痛くない。目立たない」です。しかし、がんの外科医としては「長生きできて良かった」と言ってもらえることが最も嬉しいですし、例えば20年前に手術した患者さんが会いに来てくださるのは最高に嬉しいことです。
乳腺外科学の今後の展望をお聞かせください。
がんは外科医が治せると言われていた時代がありましたが、顕微鏡が普及し、1cmの乳がん10億から100億個の細胞であることがわかる時代になりました。こうした、ミクロの世界を背景にでてきた化学療法を中心とする薬物療法が第二ラウンドですね。次にがんは遺伝子の異常が積み重なり、正常にたんぱく質を作れなくなったことから起きる疾患ですが、1個の細胞の中に隠れるように詰め込まれているがん増殖のメカニズムを発見できたら、それが第三ラウンドでしょう。したがって、今後、がんを撲滅させるにあたっては外科医や化学療法中心の内科医ではなく、分子生物学に精通した人たちが活躍する時代になるでしょう。究極の展望は乳腺外科医が絶滅種に指定されることです(笑)。そのための音頭取りはこれからも行っていきたいですね。
研修医へのメッセージをお願いします。
私が研修医時代、スーパーローテートを行っていた病院は聖路加国際病院、三井記念病院、虎の門病院ぐらいしかありませんでした。そういった病院には全国から研修医が集まっていましたが、今は全国の病院でスーパーローテートを行うようになりました。「三つ子の魂百まで」と言うように、どの大学を出たかではなく、どの病院で最初のトレーニングを受けたのかが大事です。私は聖路加で、採血注射、メスの持ち方、患者さんとの話し方、患者さんの訴えからどう文献を調べるのかといったEBMのプロセスなど、事細かに屋根瓦方式教育を受けました。最初の2年間で正しい診療姿勢を身に付けないといけません。医師のイロハをきちんと教わった人は将来、どんな分野に進んでも、その道のリーダーになれるのではないでしょうか。