記事・コラム 2010.12.15

プロフェッショナルの精神科医を目指せ!

精神科医とは、病気ではなく人間を診るもの

講師 井原 裕

獨協医科大学越谷病院

1962年鎌倉市生まれ。東京都杉並区、千葉市、北九州市に成育。
1987年に東北大学(医)卒後、自治医大精神科(宮本忠雄教授)入局。

1994年医学博士号を取得。

1995年にケンブリッジ大学留学(G.E.ベリオス教授)。

帰国後、同大博士号(PhD,Cantab)を取得。国立療養所南花巻病院医長、順天堂大学准教授を経て、2008年より現職。

専門は、司法精神医学、精神病理学、思春期精神医学など。

著書に『精神科医島崎敏樹』『激励禁忌神話の終焉』『精神鑑定の乱用』『思春期の精神科面接ライブ』『プライマリケアの精神医学』『生活習慣病としてのうつ病』など。

現在、向精神薬乱用問題に警鐘を鳴らすとともに、「薬に頼らない精神科治療」を実践。

精神科医とは、病気ではなく人間を診るもの

――医師を目指したきっかけからお聞かせください。

井原 高校は久留米大学附設に進み、寮にはいりました。親元を離れてみて初めて、「やばいぞ。これから自分の人生を築かないと」と気づきました。でも、15歳の私にはどんな仕事がこの世にあるかわかりません。商社マンだった父に「商社はどうだろう?」と聞いたら、一言、「やめとけ!」とたしなめられました(笑)。オイルショック後でしたから、父は商社が冬の時代を迎えるという予感があったのでしょう。進学校で、周囲は秀才だけど、興味・関心の偏った少年ばかり。皆、世間知らずで、将来については呑気に構えていました。高校球児が甲子園を目指すように、天真爛漫に東大なんぞを目指していて、学部はそのときの成績で決めるつもりみたいでした。しかし、私は、偏差値だけで学部を決めるのは危険だと思いました。そこに自分に向いた道があるとは限らない。で、職業についてサーベイすることにしたのです。

――どのようになさったのですか。

井原 当時はインターネットなんて便利なものはありません。ただ、私の高校には西原和美先生という、附設高生なら誰もがお世話になったカリスマ国語教師がおられて、その先生の尽力で図書室が充実していました。私は読書好きでしたが、文学オンチで、小説を読む習慣はなく、個人全集の棚には寄り付きませんでした。むしろ、専門家が専門的な内容を一般向けに書いた新書が好きでした。それで、最初の夏休みに帰省する日を遅らせて、岩波新書、中公新書の棚を端から読んでいくことにしました。内容を理解しようとは思いませんでした。世の中にどんな職業があるのかを知りたかったのです。それで、経済学、社会心理学、法医学、哲学、文学といった学者さんの本を読みました。そこで最も印象に残ったのが島崎敏樹の『生きるとは何か』だったのですね。

――どんな点が印象に残ったんでしょうか。

生きるとは何か(島崎敏樹)

井原 精神科医島崎敏樹の名は、以前から知っていました。明治書院の『現代国語I』に文章が載っていたのです。島崎敏樹先生は島崎藤村の甥に当たる方ですが、文章の美しさとリズムに惹きこまれましたね。『生きるとは何か』は、「人間とは何か」という根本問題を精神科医の立場から考えようとした著作です。抽象的に見える問題を、著者が臨床の具体例を通して考えようとしている姿勢が素晴らしいと思いました。人間に関するあらゆる学問は、最終的には「人間とは何か」という根本問題に帰着する。いや、そうでなければならないのです。でも、そういう大きな問題を、日々の診察室の中で考えることができる学問とは何てすごいのかと感動しましたね。島崎先生の考察は、大きなテーマを取り上げておきながら、高踏的ではなく、地に足がついていた。実際の診療のフィールドに根ざしていた。「これが精神医学なのか」と思いました。

――島崎先生の文体についても、お話しいただけますか。

井原 島崎先生の本を読んで、「文章とは音楽だ」ということを理解しました。島崎先生の文章は、一見すると何の変哲もないように見えて、実は、読んだときの心地よさを意識して書かれています。韻をさり気なく踏んだり、「喜び、悲しみ、寂しさ」と同じ字数の語を続けたりして、読めば独特のリズムが湧いてきます。こういう美感の伴う文章を、これ見よがしでなく、さりげなくつなげてくる。実際、ご本人もダンディな方でしたからね。読めば読むほどお洒落である。上等の服を無造作に着こなしている感じです。私は、日本語のダンディズムを島崎先生の文章に教わりました。すべてを藤村に帰してはいけないけれども、やはり文学のDNAかもしれないですね。私は文体の模写をするのが好きで、萩原朔太郎の散文詩や三木清の『人生論ノート』、柳田国男の『遠野物語』などをモデルにしていました。特に好きなのが『遠野物語』で、冒頭の部分は日本の紀行文学の最高峰ではないでしょうか。それと比べれば、『奥の細道』すら技巧をてらった感じがします。田山花袋は『遠野物語』を「粗野を気取った道楽」といってけなしましたが、実際これは、素朴に徹したお洒落なのです。『遠野物語』は擬古文ですが、似た雰囲気の現代文を書くのが私の目標です。その意味で、島崎先生の文章などは、いいお手本なのですね。

――井原先生は最初から精神科医を志して、医学部に入られたのですね。

井原 人間に関する学問は文科系にもあります。でも、正直言って食べていけるのかという心配もありましたからね(笑)。何分にも私の高校は医科大学の系列ですし、医師の師弟も多い。彼らから影響を受けた面もあります。15歳の少年のわりにはすれていて、「精神科医といえども一応医者だから、まあ食いっぱぐれはなかろう」と、そう踏んだのですね。

――進学先に東北大学を選ばれたのはどうしてですか。

井原 生まれてから何度も転居を繰り返していたので、人生は旅であるという実感は、そのころからありました。高校時代は砂を噛むような味気ない受験戦争に終始しましたから、未知の土地への憧憬は強かった。「もう、ここにはいたくない。新しい土地に身を置き、新しい空気、新しい出会い、新しい経験を探したい」、そう思って、北海道、金沢、信州、東北といった北の町に惹かれました。

――学生生活はいかがでしたか。

どくとるマンボウ青春期(北杜夫)

井原 当時、東北大学に入学する医学部生のかなり多くが北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』を読んでいました。ですから、1年生のときは4分の1ぐらいの人が精神科志望なんです(笑)。それが専門課程に上がるときには10分の1になり、卒業のときには20分の1に減る。専門課程に進むと、解剖学から始まってメディカル・サイエンスを徹底的に叩きこまれます。いきおい、精神医学のような文系的なものは忘れられがちになるんですね。また、東北大生は、医学部内部の見えざるヒエラルキーには敏感です。精神医学が医学部ではメジャーじゃないということには、すぐ気づきます。精神科は浮世離れしていて、ヒエラルキーの下というよりは外にある感じでした。それで、皆が精神科を目指さなくなるので、私も率直に言って不安になりました。

――医学生だった井原先生の目には精神科医の姿はどのように映りましたか。

精神病理学原論(カール・ヤスパース)

井原 仙台には、今でいう松岡修造氏や林修先生のような熱い人はいませんでした(笑)。冷めている人が多かった。若造の青臭い発言をあざ笑う人もいました。私が『精神病理学総論』のヤスパースのことに言及したら、「お前にわかるわけないだろう。フッサールも知らないでヤスパースが理解できるわけない」と居丈高に言った人もいました。当時の私は無知でしたが、まったく「目が節穴」というわけではありません。この先生を見て、「本当に自信のある人間の言葉ではない」くらいのことはわかりました。とにかく、色々な精神科医を見た中で光り輝いていたのが、自治医大の宮本忠雄先生でした。

――宮本先生とはどのような出会いだったのですか。

精神分裂病の世界(宮本 忠雄)

井原 当時、読書好きの医学生にとって、精神医学者といえば、精神病理学の宮本忠雄と精神分析の小此木啓吾が双璧でした。私も宮本先生の『精神分裂病の世界』を読んでいました。そこで、先生をお訪ねし、『精神分裂病の世界』のようなことを勉強したいと申し上げたら、丁寧にお話してくださいました。様々な偶然がありましたが、宮本先生の下で修行が始まることになったのです。宮本先生は島崎先生の一番弟子ですから、ご縁ですね。

――それで、自治医大での研修が始まったのですね。

井原 自治医大精神科で研修医生活が始まりました。ところが、3、4年して宮本先生は健康を害されてしまった。結果として、私たちは宮本先生の直接の指導を受けた最後の世代となりました。留学前に病室で『精神分裂病の世界』にサインを書いていただきました。先生と言葉を交わしたのは、これが最後になりました。

――市中病院にも勤務されましたか。

井原 栃木県小山市の朝日病院や小山富士見台病院にも行きました。どちらも素晴らしい指導を受けました。とくに、印象的だったのは富士見台病院の故新井進院長です。先生は永山則夫の精神鑑定チームの一員として脳波を担当した方で、司法精神医学のエキスパートでした。当直に行った夜に、遅くまで精神鑑定の個人授業を受けました。富士見台病院の狭くて、汚くて、煙草臭い医局が、私の司法精神医学の原点です。

――井原先生は精神鑑定でも素晴らしい実績をお持ちですね。

井原 自治医大時代も鑑定はやっていましたが、留学から帰って、国立療養所南花巻病院に就職したころから、本格的に鑑定を引受けるようになりました。その後、順天堂に移って埼玉県内の事件を手がけるようになり、獨協に移籍後は新聞の一面トップを飾るような事件も担当しました。暗くて汚い拘置所の取調室で、重大事件の被疑者と1対1で話すのは、まったくもってドストエフスキーの『罪と罰』の世界です。尊い命が奪われた事件ですから、被疑者を許す気で鑑定してはいけませんが、しかし、罪を憎んで、人を憎まずという気持ちも必要です。大それた犯罪を犯す人は、何か理屈があってそうしているのです。皆、自分対世界、個人対社会という不均衡な相互関係のなかに置かれています。平準化する社会の濁流の中にあって、いかにして自分を維持していくか、それはすべての人間にとっての難題ですが、それを犯罪という形で表現してしまったのが被疑者たちです。それは愚かなことです。でも、そういう独特の理屈を持つ人と向き合う時間を持てるのは、精神科医の特権です。難しく、緊張感の伴う仕事ですが、島崎先生が問い続けた「生きるとは何か」「人間とは何か」といった問題は拘置所の取調室でも考えることができます。法廷に立って、検察官、裁判官、弁護人、被疑者、傍聴者、記者、ご遺族がいる前で証言する機会をいただけるのも、精神科医という仕事を選んだからこそ、です。高校の図書室で偶然見つけた精神科医という職業は、当初思っていたよりもはるかにスケールの大きな仕事だったんですね。

――精神科医に求められる資質とはどのようなものでしょうか。

井原裕教授

井原 精神科医とは、人間の診立てのプロだと言っていいでしょう。だからこそ、裁判所や検察庁が私どもに精神鑑定を依頼してくるのです。精神科医である以上、「人間とは何か」といった問題をいつも意識してほしいです。一面では技術者ですから、技術を向上させなくてはいけません。でも、そこで終わってはいけない。精神科医として診断や治療にうまくなろうとすることは当然ですが、かつて若者だったころに人生の謎に真正面から取り組もうとした青臭い日々のことを忘れないでほしい。人間の学の根本的な問題に向き合おうとした、最初の志を忘れないでほしいのです。実際、日々の患者さんとの面接では、つねに「生きるとは何か」が問われています。診察はこの大問題の各論であり、具体例なのです。

――2004年に始まった臨床研修制度で精神科は必修科目となり、精神科を目指す人が増えたとも言われています。

井原 実際に増えているかどうかはわかりませんが、少なくとも精神科医の実像が研修医たちに知られつつありますね。昔は、奇特な医学生が選ぶ特殊な診療科という位置づけでしたからね(笑)。そもそも、昔は、精神科医は他科の医師と付き合うことがなかった。今は自閉的な態度ではやっていけません。精神科も近頃風通しがよくなってきましたね。

――スーパーローテートで精神科に回ってきた初期研修医にはどのような指導を心がけていらっしゃいますか。

井原 診察室では患者さんのどこを診るのかの具体的なポイントを指導しています。診断技術といっていいでしょう。でもそれらは、究極において、その人の人間的な部分と関わってきます。仕事が終わって、夜の街に出れば、そういう一番面白いテーマが話題になりますね。

――獨協医科大学越谷病院こころの診療科でのカンファレンスについて、お聞かせください。

井原 毎朝、外来が始まる前に行っています。その日の受診予定患者さんの病歴を皆でレビューします。1人あたり1分から2分ぐらいのペースですから、とてもスピーディです。主治医は、事前に予習していないといけません。そして、その日の外来面接のシミュレーションを行います。面接で何を話題にし、どう展開させていくか。どのような反応が起こり得るか、そういった複数のシナリオを皆で予想していきます。メンバーは私、若手医師、研修医がいるときは研修医に加えて、臨床心理士も2人います。

――井原先生は臨床心理士を重視されているんですね。

井原 うちでは臨床心理士も大切な戦力であり、患者を担当させて、ガンガン働いてもらっています。心理士は一般的には機会に恵まれていないので、力量に個人差が大きいですね。スポーツと同じで、仕事の現場で場数を踏ませて、同時にコーチについて指導を受ける必要があります。うちはスパルタ式で鍛えています。

――若手の精神科医はどのようなトレーニングを積んでいくべきでしょうか。

井原 人間としての患者さんを診てほしいです。病気ではなく人間を、症状ではなく生活を診る、それが精神科医の仕事の真髄です。「なぜ君は精神科医になったのか」、人間に強い関心を持っていたからでしょう。脳科学がそんなに好きなら、基礎医学に進めばよかった。薬の話がそんなに好きなら、薬理学に進めばよかった。画像がそんなに好きなら、放射線科に行ったら楽しかったはずですよ。アンケート調査が好きなら、じゃあ、公衆衛生学に行ったらよかったじゃないか、精神科なんかに来ないでね。では、もう一度聞きましょう、「なぜ精神科医になったのか」と。今どきのエライ先生たちこそ、この最初の問いをとっくの昔に忘れてしまっています。はっきりいって、脳科学だの、遺伝子だの、画像だのは、精神科医というプロフェッショナルにとってまったくもって二義的なものにすぎません。人間としての患者さん、生活者としての患者さんの実像を見失っているくせに、「精神医学も科学」などとうそぶくのは、実にくだらない。精神科医になった最初の動機に立ち返らなくてはいけません。二流の脳科学者、二流の放射線医学者、二流の公衆衛生学者ではなく、何よりもプロフェッショナルの精神科医を目指してほしい。やれ論文だ、やれ学会だ、やれインパクトファクターだと騒ぐ前に、まずもって精神科医の本務に関して、胸をはってプロと言えるレベルを目指してほしいですね。

――精神科医としての言葉を磨くにはどうしたらいいですか。

井原裕教授

井原 文化に関わるすべてのことに関心をもつことでしょうね。精神医学は、人間の全体に関わる仕事ですから、その時代の文化、芸術、思潮に影響を受けます。その逆もあります。特に前世紀においては、精神分析学が精神医学の一分野という域をこえて、文化の全領域に強い影響を与えました。文化に関わる精神科医にとって、最大の武器は言葉です。日本文化の歴史の中でも、「力をもいれずして,天地をうごかし,目に見えぬ鬼神をもあはれとおもはせ」と続く『古今和歌集』の一節などは、言葉の力を強調した印象的なフレーズです。文化や芸術に触れて、言葉に対する感受性を養ってほしい。言葉を使うことをしないで薬の出し入れだけをするような仕事ぶり、つまり、薬物療法しか能がないようでは、精神科医とはいえない。精神科医である以上、言葉を使えなければいけません。言葉を使うことを精神療法と呼ぶのです。精神科医にとって、精神療法こそがプロの仕事。精神療法のできない精神科医など、手術のできない外科医、英語のしゃべれない英語教師のようなもの。恥ずかしい話です。

――聴く力も大切ですね。

井原 聴く力、そう聴くには力が必要ですね。ただ言葉の字面だけを聴いてはいけません。言葉にならない言葉、声にならない声にも耳を傾けてほしい。つまり、受け身で聴くだけでは駄目なのです。患者さんは本当に大切なことは話しません。患者さんは向き合うべき問題に気づいてはいますが、向き合うのが怖いので、大切ではないことをことさら饒舌に語るものです。その語りを全部、聴くのではなく、語らないことの中に真実があること、語ることの中に誇張が混じっていることにも思いをはせてほしいのです。言葉はある意味を担うと同時に、他の意味を巧みに隠蔽するものです。そういった言葉の二重性に敏感でなくてはいけません。言葉の二重性に最も敏感だった学派が精神分析学なのです。

――統合失調症の研究もそこからですか。

井原 精神分析学の影響下に、統合失調症の内的世界を理解しようとする学派が前世紀のドイツに生まれました。人間学的精神医学といわれた潮流です。戦後、この流れを日本に持ち込んだのが島崎敏樹であり、発展させたのが宮本忠雄なんですね。私もこの二人の偉大な先駆者の系譜の延長で仕事をしてきています。だから、症状の箇条書きには興味はなく、むしろ、人としての患者さん、生活者としての患者さんを診てきたつもりです。

――最後に、精神科医を目指す研修医にメッセージをお願いします。

井原裕教授

井原 さきほど、二流の脳科学者や二流の遺伝学者ではなく、プロフェッショナルの精神科医を目指してほしいと申しました。ただ、そのことと少し食い違うようですが、もし、将来、大学病院で後進の指導を行おうとするならば、生物学的な研究も行う必要があるということは忘れないでください。私自身、生物学的研究は不得意ですが、多少行っていて、そのために現在でもアカデミズムの辺縁に職を得ています。皆さんもどうかバランス感覚を持ってください。精神療法、精神病理学、司法精神医学のような、精神医学にとってもっとも重要な学を専攻すれば、その結果、かえって昇進には支障が生じます。それは、今日の精神医学の大きな矛盾ですが、その現状は容易には変わりません。しかし、あらゆる世界に矛盾はつきもの。精神医学だって同じです。現状の中でできる限りの努力をしましょう。どうか皆さん、大きな志をもってプロの精神科医を目指してください。

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