講師 舩越 園子
フリーライター
東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。
在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。
『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。
アトランタ、フロリダ、ニューヨークを経て、現在はロサンゼルス在住。
第70回
今年2月に米フロリダ州で開催されたPGAツアーのホンダ・クラシック最終日は、重いアルコール依存症から立ち直って戦線復帰した37歳の米国人選手、クリス・カークが7年9か月ぶりのカムバック優勝を飾り、ツアー仲間や大観衆からの温かい拍手の中、思わず涙ぐむドラマチックな結末だった。
そして、カークの勝利をより一層引き立てたのは、最終日に2打差の2位から追撃をかけた34歳の米国人、エリック・コールとの手に汗握る優勝争いだった。
今回は惜敗に終わったコールは、2009年にプロ転向後、米国や世界各国を巡って下積み生活を送り、今年、ようやくPGAツアーにたどり着いた苦労人だ。
「34歳のルーキー」という異色の存在。そんなコールの一挙手一投足をロープ際から見詰めては盛んに拍手や声援を送る女性の姿が米TV局の生中継で大写しになったとき、私は驚きのあまり、「あっ!」と大声を上げてしまった。
なぜなら、その女性は、かつて一世を風靡した女子プロゴルファー、ローラ・ボーだったからだ。
「フェアウエイの妖精」
古くからのゴルフファンなら、ボーの名前や姿が記憶の片隅に残されているのではないだろうか。
カリフォルニア州ロサンゼルス近郊で生まれ育ったボーは、父親の勧めで幼いころからゴルフクラブを握り、「初めてゴルフで優勝したのは3歳のときだった」と、いつだったか彼女自身が明かしていた。
全米女子アマチュア選手権を最年少の16歳で制したボーは、モデルのような容姿から「フェアウエイの妖精」と呼ばれ、米国のみならず世界中のゴルフファンから愛されて、大人気になった。
プロ転向後の1973年に米LPGAでルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝き、それからのボーは、たびたび優勝争いを演じて大活躍を始めた。
日本にも何度かやってきて、試合に出場したり、トークショーや写真撮影にも笑顔で応じていた。日本のファンにも広く愛され、当時、日本の多くのゴルフ場や練習場にボーのポスターが貼られていた。
大学時代、ゴルフ部に所属していた私は、当時、ゴルフショップで「ローラ・ボー・モデル」と刻印されたパーシモン製のフェアウエイウッドを衝動買いしたこともあった。
それほど、ファンにとってボーの存在は大きく、彼女の名前は世界中にとどろいていた。だが、LPGAで過ごした25年間のツアー生活において、ボーがただの一度も優勝を挙げられなかったことは、知る人ぞ知るストーリーだ。
あれほど人気を博し、眩しいほど輝き、何度も優勝争いを演じてトップ10に入ること実に71回を記録していながら、彼女が一度も勝利を掴むことができなかったことは、ウソのような本当の話だ。
人生の「明」と「暗」
ボーがゴルフ界のスター選手として輝いた日々が彼女の人生の「明」だとすれば、それと背中合わせで「暗」の部分も多々あった。
ボーが10歳のとき、彼女の両親が離婚。ボーは母親に引き取られたため、幼少時代から優しくゴルフを教えてくれた父親とは、以後、別々の生活になった。
母と娘の生活は経済的には厳しいものだったそうだが、それでもなんとかゴルフを続けたボーが16歳で全米女子アマを制したことで、母子の貧しい生活には、ようやく光が差し込んだという。
世界的なスポーツ・マネジメント会社のIMGと契約を結ぶと、IMGは大々的にボーのアピールを開始した。だからこそ彼女は、日本にもやってきて、試合のみならず、さまざまなイベントや活動にも参加。そして、それらに見合う収入を得ることもできるようになった。
しかし、ティーンエイジャーにして眩しいスポットライトを浴びながら、その後、どうしても勝利に手が届かなかった日々は、少しずつボーの心身を蝕んでいったそうだ。
プロゴルファーとして転戦生活を送る一方で、4度の結婚と7度の出産を経験したボーは、多忙をきわめる日々と勝てない悔しさを噛み締めるうちに、やがてアルコールに逃げ場を求めるようになった。
「誰かを救いたい」
1982年に長女を出産し、以後、男子、女子、男子、男子、女子、女子の順に子宝に恵まれたボーが、最後に出産したのは1997年だったが、彼女はその1年前の1996年にアルコール依存症から立ち直るためのリハビリ施設に入所。「それからは、ただの一度もお酒には手を出していない」と、今も胸を張っている。
リハビリ施設では、同じ苦しみを抱える人々と体験を話し合ったり、アルコール依存症から立ち直った人々の講演を聞いたりしたという。
そして「これからの私は、人を救うことで自分も救われるのだと悟った」そうだ。
ほどなくしてボーはツアープロとして戦う生活に自らピリオドを打ち、ティーチングの道へ転向した。「ゴルフを教えることで誰かを救いたい」と考えた結果だった。
ティーチングを行なう生活に没頭する傍らで、全米各地のアルコール依存症のリハビリ施設を訪れ、自らの体験を赤裸々に人々に伝えた。
「誰かを救いたい」という想いが、ボーをそうした社会貢献活動に駆り立て、「チャリティ」と名が付くゴルフの大会には可能な限り、足を運び、何かに苦しんでいる誰かのための寄付金集めに尽力した。
自身の体験談を記した「アウト・オブ・ラフ」なる自叙伝も出版。
かつて一世を風靡したスター選手としては、ある意味、地味な社会貢献活動なのかもしれないが、「明」と「暗」の双方を知るボーだからこそ、一番大切なのは、お金でも派手さでもなく、「誰かのために」という想いであることを知っているのではないだろうか。
そんなボーの長男コールが苦労の末に34歳にしてPGAツアーにたどり着き、優勝争いを演じた姿を目にしたとき、なるほど、ネバーギブアップの精神は母から息子に受け継がれたものなのだと確信できた。