
講師 舩越 園子
ゴルフジャーナリスト
東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。
在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。
『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。
アトランタ、フロリダ、NY、ロサンゼルスを経て、現在は日本が拠点。
2024年1月にカリフォルニア州サンディエゴ近郊のトーリーパインズで開催されたPGAツアーのファーマーズ・インシュアランス・オープンで、フランス出身のマシュー・パボンという選手が初優勝を挙げた。
当時のパボンは31歳の無名の新人で、PGAツアー参戦を開始してわずか3試合目で勝利を挙げたことは、そこだけ見れば、とんでもないスピード出世のように感じられた。
しかし、31歳にして新人という事実は、彼が長く苦しい歳月を地道に歩んできたことを自ずと物語っていた。
「僕はハイスクールからはアメリカに行った。卒業後はアメリカの大学に進もうかとも思ったけど、僕の世界アマチュアランキングは、一番良かったときでも、せいぜい800位前後で、決してベリー・グッド・プレーヤーではなかった」
このランキングでは、ゴルフの名門大学への進学は難しく、いきなりツアープロになることは、「さらに厳しかった」。
そこでパボンは、大学へは進学せず、2013年にプロ転向。フロリダを拠点にして、草の根のミニツアーで腕を磨きながら、「いつかはPGAツアー選手になる」という夢を追い続けた。
「アメリカのミニツアーで7年戦った。それからヨーロッパに戻った」
欧州の下部ツアーで、さらに下積みを重ね、2017年からは「一軍」のDPワールドツアー選手になり、2023年10月にスパニッシュオープンで初優勝。DPワールドツアーのポイントランキングでトップ10に食い込み、その資格で、2024年からのPGAツアー出場権を獲得した。プロ転向以来、11年目のことだった。
そして、夢にまで見たPGAツアーにデビューするやいなや、わずか3試合目のファーマーズ・インシュアランス・オープンで見事、勝利を掴み取った。
「これ以上、幸せな瞬間はない。まさにドリーム・カム・トゥルーの気分だ」
夢の途中の興味深い秘話
パボンは個性豊かなユニークな選手で、彼の右手の甲に刻まれているタトゥーが、米ゴルフ界ではちょっとした話題になった。
それは、プロ転向から11年もの間、地を這うようにして戦ってきたパボンの心の拠りとなってきた、こんな一文だった。
「今、溢れ出す涎(よだれ)は、明日の喜びの涙になる」
後に、パボンは「ハーバード大学の壁に掲げられていた一文から拝借した」と明かしていた。そういえば、日本にも「垂涎」という言葉があることが、なんとなく思い出された。
こんな秘話もある。パボンがハイスクールに通っていた2000年4月、パボンの母親はマスターズを観戦するため、米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルを訪れたそうだ。
そして、コース内のある場所に立っていた大木の下に、1枚のフランスのコインをこっそり埋めたそうだ。
「どうか、我が息子がプロゴルファーになって、いつかこの土の上に立ち、マスターズで戦うことができますように」
パボンの母親は「いつか願いが叶ったら、そのときは、もう一度、この場所へ来て、このコインを回収します」と誓ったそうだ。
パボンが早々にPGAツアーで勝利を挙げ、マスターズ出場資格を手に入れたことで、コインの回収も急がなければならなくなった。
「僕がひっそり回収します」
苦笑しながら、そう言ったパボンは、とてもうれしそうだった。
さらなる勝利で、さらなる寄付を!
ところで、初優勝を挙げたファーマーズ・インシュアランス・オープンの最終日、優勝争いの大詰めの18番で、パボンのティショットは左のフェアウエイ・バンカーにつかまった。そして、パボンと相棒キャディのマーク・シャーウッドは、ちょっとした「論争」をしたという。
「キャディは安全に行こう、レイアップしようと言った。でも僕は、いやいや、ライはさほど悪くないから、行ける、攻めようと言った。できる限り前へ行くと決めたんだ」
結局、果敢に挑む道を選んだパボンの第2打は、彼の言葉通り、前方には進んだものの、深いラフに沈んだ。
しかし、重いラフから力いっぱい振った第3打は、見事にグリーンを捉え、ピン方向へ転がり寄った。そして、3メートルのバーディーパットがウイニングパットとなり、勝利を決めたパボンは、右拳を握り締めてガッツポーズを取った。
セイフティ・ルートを示した相棒キャディの助言を聞き入れず、ハイリスク・ハイリターンの道を選んだことは、失敗だったように見えて、結果的には大成功となった。
パボン自身、「相棒キャディと話し合ったことで、行ける、狙えるという確信を抱くことができた。キャディには、とても感謝しているし、いつも感謝している」と振り返った。
そんなふうに、試合中は時として意見が食い違うこともある2人だが、コース外では、パボンはキャディのシャーウッドの言葉に、いつも耳を傾けているという。
シャーウッドは、プロキャディを務める傍らで、私生活ではサイクリストとして様々なキャンプにも参加しているそうだ。
パボンに出会う以前は、欧州出身選手のキャディを歴任していたが、そのうちの1人だったある選手が「チャリティのために、ヒマラヤにトレッキングに出かけていた」という。
「その選手の友人の母親が多発性硬化症という難病と診断され、彼は友人に医療費や様々な費用を援助したい一心で、トレッキングによって寄付を募るチャリティ活動を行なっていた。私はそれを知って以来、誰かのバッグを担ぐたびに、その話をして、選手たちにそのチャリティ活動への参加や寄付をお願いしてきた。聞いてもらえたときと、聞き流されたとき、いろいろあった」
2023年の秋、シャーウッドはパボンと出会い、彼の相棒キャディになることが決まると、さっそくパボンにも「お願い」をした。
すると、パボンは「わかった。一緒に頑張って、稼いだ賞金から寄付しよう」と答えたそうだ。
金額などの詳細は明かされていないが、2024年のファーマーズ・インシュアランス・オープンで手に入れた優勝賞金の中からも、パボンとシャーウッドは多発性硬化症の患者や家族のための財団へ寄付をしたという。
そして2025年も、これからも、さらなる勝利とさらなる寄付を目指して、パボンとシャーウッドは二人三脚を続けていく。