記事・コラム 2024.01.15

ゴルフジャーナリストが見た、プロゴルファーの知られざる素顔

【2024年1月】命のリレー、命のショー

講師 舩越 園子

フリーライター

東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。

在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。

『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。

アトランタ、フロリダ、ニューヨークを経て、現在はロサンゼルス在住。

第79回

PGAツアーでは、古くから「Qスクール」というものが開催されている。これは、翌シーズンのツアー出場資格を得るための予選会である。

「スクール」と言っても、学校のような施設があるわけではないのだが、「何年のQスクール卒」といった具合に、まるで学校の卒業年度のようにプロフィールに記載されることから、「スクール」という言葉が付されるようになったのだろう。

そもそもQスクールは、規定の順位以内に食い込みさえすれば、いきなりPGAツアーへの出場が叶う一発勝負の登竜門だった。

だが、PGAツアーは2012年に、このQスクールをPGAツアーではなく下部ツアーであるコーンフェリーツアーへの登竜門に変更してしまい、以後はPGAツアーへダイレクトで進む道は消滅した状態になっていた。

しかし、2023年にQスクールの規定が再び変更され、「トップ5には翌年のPGAツアー出場資格を付与する」という新たな条項が設けられた。そして、次なる40名には、コーンフェリーツアーへの優先出場権が授けられることになった。

そんな「新生Qスクール」で、米国人選手のエリック・コンプトンが44歳になった今でも奮闘していることを知ったときは、正直なところ、大いに驚かされ、そしてうれしくなった。

ドナーへの恩返し

私が初めてコンプトンの存在を知ったのは、彼がまだプロゴルファーになったばかりだった22歳のときだった。

心臓移植を受けた体でプロゴルファーになったアメリカ人選手がいるという噂を耳にした私は、奇跡の物語を取材したい一心で、彼が住むフロリダ州マイアミへ向かい、コンプトンと向き合った。

生まれつき心臓に欠陥があり、移植を受けなければ助からないと宣告されたコンプトンは、幼いころから入退院を繰り返し、ドナーの出現を待つ生活をしていた。そして、12歳のとき、幸運にもドナーが現れ、心臓移植手術を受けることができた。

しかし、手術後は抗生剤の副作用で顔や体がパンパンに腫れ上がり、「まるで別人。僕じゃないみたいな姿だった」。

それでも、コンプトンの心は生きていることへの感謝と喜びで満ち溢れていたという。

「同年代の友達と比べたら、体力にかなりの差は出てしまったけど、術後でも僕のほうがみんなよりうまいって言えるものが1つだけあった。それが、ゴルフだった」

薬の副作用が続く中、グローブのように腫れ上がった手でゴルフクラブを握ったのは、手術から5か月後。やがてコンプトンは屈指のインストラクター、ジム・マクリーンの門を叩き、本格的な指導を受けるようになった。

「心臓移植を受けたからと言って、やりたいことをやらずに生きたのでは意味がない。夢を追い、精いっぱい生きることが、心臓をくれたドナーへの何よりの恩返しになる」

それまで、心臓移植を受けてプロゴルファーになった例は、米国にも世界にも一例もなかったそうだが、コンプトンは前例のない奇跡の実現を夢に掲げ、歩き出した。

生涯3つ目の心臓

地元マイアミのハイスクールを卒業したコンプトンはゴルフの名門、ジョージア大学へ進学。3年生の途中で大学を離れ、2001年にプロ転向した。

米国内ではミニツアーや下部ツアーに積極的に参戦。ときには国境を越え、戦う場を求めてどこへでも行った。2004年にはカナディアンツアー賞金王、2005年にはモロッコのハッサンⅡトロフィーで優勝。

そうやって戦い続けるコンプトンの話は、やがてPGAツアー関係者の耳にも入るようになり、いくつかの大会から推薦出場をオファーされるようになった。

地元マイアミで開催されたフォード選手権には2004年から2年連続で推薦出場。スタートホールでは「タイガー・ウッズやフィル・ミケルソンと同じ土俵で戦えるなんて……」と緊張に身を震わせ、フィニッシングホールでは観衆の拍手と声援に感謝し、涙で肩を震わせた。

とはいえ、彼のその後は苦労の連続だった。毎年毎年、Qスクールに挑戦しては失敗し、PGAツアーに出られるのはスポンサー推薦をもらえたときだけだった。

そんなコンプトンが心臓発作で倒れ、救急搬送されたのは2007年9月だった。12歳のときに移植され、以後16年間、問題なく動いてくれていた心臓が、ついにダメになったという診断が下された。

「再度の心臓移植が必要だと言われ、僕は迷うことなく手術を希望し、ドナーを待った」

それから1年も経たないうちにドナーが現れたのは、まさに奇跡だった。2008年5月に2度目の心臓移植を受けたコンプトンは、生涯3つ目の心臓を体に携え、命の灯を再燃させた。

手術から、わずか5か月後には試合に出場。「こうして試合に出て、この僕がいまだにしぶとく生きていることを、みんなに自慢できるのが、うれしいよ」と笑ってみせた。

そして、2011年にQスクールをついに突破。2012年からは夢にまで見たPGAツアー選手となり、2014年全米オープンでは優勝争いに絡んで2位タイになった。2015年にはマスターズに初出場。2度の心臓移植を経てオーガスタ・ナショナルの土を踏んだ史上初のゴルファーになった。

つないでもらった命だからこそ

「1度目の手術も2度目の手術も、とても強靭なチャンピオンから心臓をもらったと信じている。だって、心が強い人じゃなければ、自分の心臓を他人にあげて、他人の命を救おうなんて思わないはずだから」

コンプトンは2015年にエリック・コンプトン財団を創設。臓器移植への理解と協力を求め、「命のリレーを助けたい」と語るコンプトンは、毎年、チャリティ・ゴルフトーナメントを開き、移植手術を手掛ける全米各地の病院に寄付を行なっている。

コンプトンが2度の手術で得た「生」は、ドナーや医療関係者、協力者、応援者など大勢の人々の勇気と励ましと優しさによってもたらされた命だ。人々の真心がコンプトンのパワーになり、不思議な力をもたらしている。

「僕のゴルフは、つないでもらった命でゴルフクラブを振り、人々に新たな勇気を与える命のリレー、命のショーだ」

2016年以降はPGAツアーでシード落ちを喫したコンプトンは、その後は下部ツアーで戦い続け、昨年12月のQスクールで38位タイに食い込んで、2024年も下部ツアーで戦う資格を手に入れた。

「これで下部ツアーの最初の8試合に出られる。そこで頑張れば、再びPGAツアーに進む道が開ける」

コンプトンの命のショー、命のリレーは、命ある限り、どこまでも続いていく。