記事・コラム 2022.12.15

ゴルフコラム

【第66回】「ナイスガイだからこそ」のメジャー制覇と社会貢献

講師 舩越 園子

フリーライター

東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。

在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。

『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。

アトランタ、フロリダ、NY、ロサンゼルスを経て、現在は日本が拠点。

スコットランドの名門ロイヤル・バークデールが舞台となった2008年全英オープンは、左膝の手術を受けたばかりだったタイガー・ウッズが欠場し、開幕前は「ウッズ不在の淋しいメジャー」と呼ばれていた。

しかし、蓋を開けてみれば、当時53歳のグレッグ・ノーマンが突如リーダーボードを駆け上がり、往年のビッグスター、“ホワイトシャーク”の奇跡のシニア優勝の可能性に人々の視線は釘付けになった。

ノーマンと言えば、今ではサウジアラビアの政府系ファンドの支援を受け、リブゴルフを創設してCEOを務めるビジネスマンと化している。

だが、現役時代はメジャー大会で何度も優勝争いに絡みながら、マスターズでも全米オープンでも全米プロでも、苦い敗北を喫し、彼には常にどこか報われないイメージが付きまとっていた。

それでもノーマンには全英オープンだけは2勝を挙げた実績があり、だからこそ、あの2008年大会では、たとえシニア年齢になっていても、ノーマンの3度目の全英制覇に人々は大きな期待を寄せていた。

しかし、優勝トロフィーのクラレットジャグを持ち帰ったのは、ノーマンではなく、アイルランド出身のパドレイグ・ハリントンだった。

ハリントンは前年大会に続く全英オープン連覇を達成。欧米メディアは「やっぱりナイスガイ、ハリントンが勝利した」と大々的に報じた。

寒風が吹き荒れたロイヤル・バークデールの最終日。気合いが入り、興奮していたせいなのか、それとも無類の暑がりなのか、ハリントンは出場選手の中でただ1人、半袖姿で1番ティに立ち、ティオフしていった。

あるホールでティショットを打ち、歩き始めたハリントンは、ロープ際で車椅子に座って寒そうに観戦していた高齢女性の方へぐんぐん近寄っていった。そして、自分のゴルフバッグの中からウインドブレーカーを取り出すと、女性の膝の上にそっとかけ、無言で歩き去っていった。

優勝争いの真っ只中で、その場面を目にしたとき、ハリントンは、なんていい人なんだろうと私は心底思ったが、そう思ったのは私だけではなかったようで、だからこそ彼が勝利したとき、欧米メディアは一斉に「いい人が勝つ」「ナイスガイ、強し」と書いたのだろう。

キャリアの前半と後半

ハリントンは昔も今も欧米ゴルフ界きってのナイスガイだが、まさかナイスガイぶりだけでゴルフの試合に勝てるはずはなく、ましてや全英オープン連覇が人柄の良さだけで達成されたわけではない。

そう、ハリントンにはハリントンなりの緻密な計算が実はあったのだ。

アイルランドのダブリンで生まれ育ったハリントンは、地元のダブリン大学を卒業。1995年に24歳でプロ転向した当初から「プロのキャリアは、もって20年」と考えていた彼は、自らのキャリア20年を前半と後半に分けて、後半の10年を「メジャー優勝を狙う期間」と定めた。

その計画通り、2005年に34歳で米PGAツアーのメンバーになり、欧米両ツアーの掛け持ち参戦を開始。35歳で全英オープン初制覇を遂げ、36歳で全英オープン連覇を成し遂げた。

プラン通り、狙い通りにメジャー大会を制覇できたのは、なぜなのか。一体どうやって、そんな離れ業を成し遂げることができたのか。そう尋ねられたハリントンは、こう答えた。

「楽しくないことも続けられるかどうかが結果を左右する。そして、僕はそれを続けてきた。なぜなら、最後につかむ栄光を楽しみたいと思ったからだ」

毎朝、ダイニングテーブルの上に飾ってあるクラレットジャグを眺め、日々の鍛練を心に誓ってきたというハリントン。

そんな彼の「いい人」と「努力」が、彼に全英連覇をもたらしたことを知ったとき、「ナイスガイが勝つ」というフレーズは私の心の奥底に深く刻み込まれた。

幸せをもたらし、幸せになる

ところで、全英オープン連覇を成し遂げる以前から、ハリントンはナイスガイとして知られており、当時、その理由を探った私は「なるほど」と頷かされた。

キャリアの後半10年を「メジャー優勝を狙う期間」と自ら定めたハリントンは、キャリアの前半の10年を「メジャー・チャンピオンになるための準備期間」と定めたそうだ。

その準備の中には、心技体を磨くことはもちろん含まれていたのだが、もう1つ、「メジャー・チャンピオンにふさわしい人間になること」という目標も含まれていた。

プロゴルファーとして社会のためになること、人々のために尽くし、役に立つこと。それができずして、メジャー・チャンピオンと呼ばれる資格はないと考えていたハリントンは、2004年にパドレイグ・ハリントン・チャリティ財団を創設した。

障害のある人々にゴルフを楽しんでもらいたいと願い、スペシャルオリンピックスのアンバサダーに就任。

重い傷病と向き合う子どもたちの願いを叶えるためのメイク・ア・ウィッシュ財団のアンバサダー役も引き受けた。

さらにハリントンは、食道がんと闘う人々やその家族を支援し、食道がん治療のための研究開発を促進するためのチャリティ基金も創設。

毎年5月には、ローリーポップと呼ばれる色鮮やかなキャンディを掲げて、食道がんの初期症状を見逃さないよう人々に呼びかける「ローリーポップ・デイ」のイベントにもアンバサダーとして参加している。

2015年には、子どもたちを犯罪や暴力から守るために活動しているアイルランドの人権保護団体と協力してゴルフのエキシビション大会を開催。

魔法のようなトリックショットから力強いドライバーショットまで、さまざまな技を披露したハリントンは、その大会で得られた1000万円以上の収益金を、すべて同財団へ寄付した。

社会に尽くし、人々の役に立てる人間になっていなければ、メジャー・チャンピオンになる資格はない。

そう考えたハリントンは、キャリア前半でナイスガイへの道を歩み、キャリア後半でメジャー覇者への道を歩み、51歳になった今はシニアのチャンピオンズツアーに参戦。2022年は4勝を挙げ、充実した人生を謳歌している。

そんな彼を眺めていると、ナイスガイは人々に幸せをもたらすからこそ、自身も幸せになるのだと頷かされる。