記事・コラム 2019.06.15

ゴルフジャーナリストが見た、プロゴルファーの知られざる素顔

【第24回】惜しみなく与える「DJ」の物語

講師 舩越 園子

フリーライター

東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。

在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。

『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。

アトランタ、フロリダ、NY、ロサンゼルスを経て、現在は日本が拠点。

 米国人選手のダスティン・ジョンソンが屈指のロングヒッターであることは、ゴルフ好きなら誰もが知るところであろう。2016年全米オープンを制したジョンソンは現在34歳。米ツアー通算20勝を挙げ、世界ナンバー1にも昇り詰めたスター選手である。

 だが、ジョンソンは自らスターを演じるタイプではなく、饒舌でもない。うれしいときはシャイな笑顔も垣間見せるが、辛いときや悲しいときはじっと唇を噛み締めて耐えている。そんな「DJ」には根強いファンも多い。

 ニューヨーク州のべスページ・ブラックコースで開催された今年の全米プロ最終日の大詰めで、首位を独走していたブルックス・ケプカではなく追撃をかけていたジョンソンを応援する「DJコール」が鳴り響いたことは、記憶に新しい。

 才能に溢れ、実力を備えているジョンソンが、今、米ゴルフ界の次代の担い手の一人に数えられていることは間違いない。しかし、そこに至るまでの道程を問われると、ジョンソンの口調は重くなる。

 まだジョンソンがメジャーチャンピオンになる以前だった2010年ごろ、単独インタビューで聞いた彼の言葉が今でも忘れられない。

 「上り調子だと感じたのは大学1年のときだけだった。その後はずっと、運気も何もかもが下がるばかり。ここ6~7年、アップしていると感じたことは一度もない。僕の人生、ずっとダウンの日々さ」

DJの悲運

 2008年から米ツアー参戦を開始したジョンソンのキャリアの始まりは順風満帆に見えた。ルーキーイヤーに早々に初優勝。翌年にはAT&Tペブルビーチ・プロアマで通算2勝目を挙げ、2010年にはペブルビーチで大会連覇を達成。

 190センチの長身から軽々と放たれる300ヤード超のビッグドライブは人々を魅了し、ちょうど不倫騒動で成績が後退していたタイガー・ウッズに代わる期待の若手、大型新人としてジョンソンに大きな注目が集まった。

 しかし、その翌年。2011年の全米オープンでは得意なはずのペブルビーチで最終日を単独首位で迎えながら「82」の大崩れを喫して8位タイに終わった。

 その2か月後の全米プロでは72ホール目の第2打を打つ際、バンカーをバンカーと認識せず、クラブを砂にソールして2罰打を科せられた。ボギーがトリプルボギーとなり、プレーオフ進出の権利を突然失ったジョンソンは顔面蒼白だった。

 立て続けに起こった「DJの悲運」を米メディアは取り沙汰し、彼の過去が掘り返されて報じられるようになった。

 サウス・カロライナ州のゴルフのメッカ、マートルビーチで生まれ育ったジョンソンは、地元の高校に通う、ゴルフが上手い高校生だった。

 だが、仲良くしていた友人たちがピストルを盗んで売買し、逮捕されるという悲しい事件が起こったそうだ。それからというもの、ジョンソンは友人たちとの関係を断ち切り、ゴルフに没頭しようとしたが、ゴルフの腕を磨くための十分な環境は整っておらず、ゴルフの腕を競い合える仲間もいなかった。

 だからジョンソンは地元のゴルフ場で大人たちを相手にマネーゲームをするようになった。マートルビーチには全米、いや世界中からゴルフ好きの大人たちが集まってくる。その大人たちを相手に行なう賭けゴルフは「1打の重みを競い合うプレッシャーに慣れる上で、プロゴルファーの礎になった」。

 何かに取りつかれたように自分の世界に没頭するジョンソンの姿勢は、以後もずっと続いた。

 地元のコースタル・カロライナ大学を卒業後、2007年にQスクール(予選会)に合格して米PGAツアー入り。そのQスクールは1次予選から挑み、2次予選、最終予選と長丁場を乗り切っての見事な合格だった。

 3ステージぶっ通しで合格するゴルファーは、毎年、挑戦者のわずか1%ほどしかいない狭き門だった。ジョンソンが発揮した恐るべき集中力と忍耐力の源は、彼が過ごしてきた辛く孤独な過去の日々と無関係ではなかったのだと思う。

財団設立直後からの躍進

 だからだったのだろう。2010年にジョンソンは自身の名を冠した「ダスティン・ジョンソン財団」を設立した。故郷マートルビーチの子供たちや若者たちがゴルフを学び、スキルを磨き、ハイレベルな戦いに挑んでいくためのサポートをすることが財団設立の一番の目的だ。

 「DJゴルフスクール」も開校し、「DJ世界ジュニア選手権」なる大会も創設。若者たちに豊かなゴルフ環境を提供したいと願いながらこの財団を設立した途端、ジョンソンはメジャー大会で続けざまに優勝争いに絡み始め、成績は向上していった。

 毎年1勝のペースで勝利を重ねた末、2016年の全米オープンを制して、ついにメジャーチャンピオンになった。最終日の優勝争いの真っ只中、ルール委員が裁定に窮し、ホールアウト後まで罰打を科すかどうかが保留されるという前代未聞の珍事に巻き込まれたが、ジョンソンは動じることなくプレーを続け、見事、メジャー初勝利を手に入れた。

 そして、その年は年間3勝、2017年は年間4勝、2018年は年間3勝を挙げる快進撃。「世界ナンバー1のダスティン・ジョンソン」は、かくして生まれたのだった。

介助犬「DJ」と対面

 ジョンソンの財団がマートルビーチのジュニアゴルフ協会に贈った寄付金は、すでに50万ドルを超えている。それ以外にも、子供たちのゴルフ用具購入費として毎年2万ドルを贈っている。そして近年は、目が不自由な子供たちのために盲導犬を購入して贈る活動も開始している。

 今年2月、米ツアーのジェネシス・オープン会場となったリビエラCCで、ジョンソンは自身と同じ「DJ」と名付けられた介助犬と、その主(あるじ)であるミッシェルさんという退役軍人女性と対面した。

 ミッシェルさんは2008年に戦地での任務を終えて帰還したものの、極度のPTSDに苦しみ続けていた。だが、介助犬と出会ったことで、なんとか笑顔を取り戻したという。

 ゴルフ好きでジョンソンのファンだったミッシェルさんは介助犬に「DJ」と名付け、生活をともにしながら、毎日必死に生きている。ジョンソンは、そんな彼女と彼女の相棒である「DJ」と対面する機会を作り出し、「一緒に頑張ろう」と激励した。

 ジョンソンが世界選手権のメキシコ選手権を制し、通算20勝目を挙げたのは、その翌週だった。

 誰かのために惜しみなく与える選手には、神様から運や強さが与えられる――そう信じたくなる「DJ物語」だった。