記事・コラム 2018.10.15

ゴルフジャーナリストが見た、プロゴルファーの知られざる素顔

【第16回】「たった4勝」でも「メジャー無冠」でも、どんどん高まるリッキー・ファウラーの人気

講師 舩越 園子

フリーライター

東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。

在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。

『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。

アトランタ、フロリダ、NY、ロサンゼルスを経て、現在は日本が拠点。

 先月のこのコーナーで、白血病と3度も闘い続けて亡くなった米ツアー選手、ジャロード・ライルの話を書かせていただいた。
 今年8月8日にライルが天国へ旅立った直後から今季最後のメジャー、全米プロが開幕。ライルを「僕の親友」と呼んでいたリッキー・ファウラーは、元々は大会初日にネイビーブルーのシャツを着る予定になっていたが、「手持ちのウエアの中に黄色のシャツがあった。このシャツを着て、ジャロードを想いながらプレーしたい」と考え、「ライルの色」とされてきた黄色のシャツに身を包んで1番ティに立った。
 実を言えば、29歳のアメリカ人選手であるファウラーと36歳だったオーストラリア人選手のライルが、互いを「親友」と思い合うほど深い親交があったことは、そのときまでは、ほとんど知られていなかった。
 よくよく聞いてみれば、ファウラーが米ツアーにデビューしてから3年後の2012年に2度目の闘病を終えたライルが米ツアーへカムバック。そのとき、誰よりも先にライルへ歩み寄り、さまざまな面で手を差し延べたのがファウラーだったそうだ。

バッジを付けてグリッフィンくんへの想いを語ったファウラー。
(photo: 舩越園子)

少年との5年間の交流

 そんなふうに、ファウラーはいつも、誰よりも早く助けを必要としている相手に手を差し延べる。力になりたいと感じた相手がそこに居たら、自分が力になろうと即決し、即座に動き出す。
 今年2月にも、そんなファウラーの姿を知ることになった出来事があった。
 アリゾナ州のTPCスコッツデールで開催されるフェニックス・オープンは米ツアーで最大の観客数を誇る賑やかな大会だ。今年は予選ラウンドから例年以上にギャラリーが詰め寄せ、2日目は過去最高の19万1400人を記録した。
 その大観衆の中で初日から好プレーを披露していたのがファウラーだった。首位でホールアウトした2日目のラウンド後、ファウラーは大勢のメディアの前に立った。
 そのときファウラーの傍らには米国人男性が一人。その男性は大会前週に7歳で天国へ旅立ったグリッフィン・コネルくんの父親ジムさん。すぐそばには母親エイミーさんも佇んでおり、ファウラーに促された父親ジムさんが、マイクに向かって、こう語った。
 「この5年間、リッキーと彼のキャディのジョーは僕の息子グリッフィンに本当に素晴らしいものをもたらしてくれた。
 グリッフィンは、この世から居なくなってしまったが、グリッフィンが空からこの試合を観戦し始めた今、こうしてリッキーが首位に立ったことは決して偶然ではないと思います。リッキーがグリッフィンに与えてくれた温かいサポートと堅い友情は、本当に本当にワンダフルでした」
 ファウラーとグリッフィンくんが出会ったのは2013年大会の試合中。コース内の丘の上でソリのような特製の乗り物に乗せられ、その上で笑顔を輝かせながらファウラーに向かって手を振り続ける幼い男の子がいた。
 ファウラーの最終日のウエアと言えば、オレンジ色のシャツが定番だが、グリッフィンくんもファウラーそっくりのオレンジ色の出で立ちだった。首には白い医療器具が付けられていたが、元気いっぱいに手を振るグリッフィンくんに気が付いたファウラーは、試合中にも関わらず、引き寄せられるように近寄っていった。
 そのときグリッフィンくんは、まだ2歳。その場にいた父親ジムが「息子は気道に障害を持って生まれたので言葉を発することができません。でも、大のリッキー・ファンで、アナタがテレビに写ると、この子は大喜び。だから、こうして試合会場に連れてきました」
 それから毎年、グリッフィンくんと両親はこの大会にやってきた。手術を何度も繰り返し受けては回復に努めていたグリッフィンくんは、そのときどきの状態に合わせ、ソリ風だったり、三輪車風だったり、箱型のワゴン風だったりと、いろんな乗り物に乗せられ、どんなときもファウラーに笑顔で手を振っていた。ここ数年はグリッフィンくんがメールを使えるようになり、2人は頻繁にメールのやり取りもしていたそうだ。
 「グリッフィンは僕の調子が良くても悪くても、いつも天使のような笑顔で応援してくれた。彼は僕のナンバー1ファンだった」
 今年も試合会場で会うことを楽しみにしていたが、大会直前に訃報を聞いた。ファウラーはショックで茫然となったが、グリッフィンくんのために何ができるだろうかと考え、グリッフィンくんの写真でバッジを作り、そのバッジをキャップに付けてプレーすることを思いついた。
 バッジの写真の中のグリッフィンくんはオレンジ色のTシャツに身を包み、右手の親指を立てて「リッキー、頑張れ!」とサムアップしていた。
 「いつも僕を応援してくれたグリッフィン。彼の笑顔と魂は永遠に僕の傍らにある」
 ファウラーがバッジを作り、世の中に伝えたことで、グリッフィンくんが懸命に、そして明るく生きた7年間の彼の人生は大勢の人々の記憶に刻まれた。
 グリッフィンくんの両親は、息子の死を悲しみながらも、「リッキー、ありがとう」と笑顔を讃えていた姿が印象的だった。

バッジの中のグリッフィンくん。(photo: 舩越園子)

人間としての魅力

 ファウラーはカリフォルニアで生まれ育った米国人だが、日本人の祖父を持ち、「ユタカ(豊)」のミドルネームも持っている。
 日本風と思える太く濃い眉が特徴的な端整な顔立ちとユニークで華やかなファッションは、2010年の米ツアーデビューと同時に大きな注目を集め、ファウラーは瞬く間に大人気を誇るスター選手になった。
 しかし、初優勝まで2年半を要した。今では通算4勝の実績だが、それでも大人気ぶりと照らし合わせれば、「たった4勝」と揶揄されることも多い。メジャーでは何度も勝ちかけたが、今なお未勝利。「米ツアーで最も過大評価されている選手ナンバー1」という屈辱的な称号を与えられたこともあった。
 だが、人気の高さのわりに勝利数が少なくても、メジャー未勝利でも、ファウラー人気が高まる一方であることは、それだけファウラーが人間として魅力的であることの証だ。
 助けを求めている人がいたら、その人の力になりたい、なろうと思い、そしてすぐさま力になり、その後も力になり続ける。そして、手を差し延べた相手は、みな「僕の親友」と考え、大切にする。それがファウラーの何よりの魅力だ。
 自身の名を冠した「リッキー・ファウラー財団」をいち早く設立し、傷病や貧困で苦しむ子供たちや母校のオクラホマ州立大学へも惜しみなく手を差し延べている。チャリティは可能な限り「キャッシュで寄付」というところが、いかにも即決し、即行動するファウラーらしい。
 きっと今もどこかでファウラーは助けを求めている誰かを見つけては、すぐさま歩み寄り、また1人、「僕の親友」を増やしているに違いない。

笑顔でファウラーに感謝していたグリッフィンくんの両親。
(photo: 舩越園子)