記事・コラム 2018.09.15

ゴルフジャーナリストが見た、プロゴルファーの知られざる素顔

【第15回】ジャロード・ライルの36年の人生が残してくれたもの

講師 舩越 園子

フリーライター

東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。

在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。

『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。

アトランタ、フロリダ、NY、ロサンゼルスを経て、現在は日本が拠点。

 白血病と闘い続けたオーストラリア人選手、ジャロード・ライルが、今年8月8日、36歳でこの世を去った。
 白血病を発症しては闘病し、奇跡的に回復し、プロゴルファーとして戦い、そして再び白血病との闘病を3度も繰り返した壮絶な人生を通して、ライルがゴルフ界と社会に残してくれたものは大きかった。

ジャロード・ライルは白血病を発症しては闘病・復活を3度も繰り返した壮絶な人生を送ったプロゴルファー。(photo: 舩越園子)

周囲に支えられ、カムバック

 初めてライルのことを知ったのは、彼が2度目の白血病を発症し、母国に戻って闘病を開始した直後。2012年の春だった。
 ある日、米ツアーのベテラン選手、オーストラリア人のロバート・アレンビーが試合会場で黄色いアヒルのバッジを選手やキャディ、関係者に配っていた。「そのアヒルには、どんな意味があるのですか?」と尋ねると、アレンビーは神妙な面持ちでライルの話を聞かせてくれた。
 「17歳で白血病になり、それを克服してプロゴルファーになったジャロード・ライルという選手がいるんだ。僕と同じオーストラリア人。僕はジャロードのことを子供のころから知っていて、彼が白血病になってプロゴルファーになる夢を諦めようとしていたとき、諦めちゃダメだって励ました。で、彼は必死に頑張って、闘病して治って、プロになって、アメリカに来て、米ツアーにデビューした。でも先日、白血病が再発してオーストラリアに帰ったところだ。治療費やいろんな費用を助けるために、僕はこのアヒルのバッジを配ってみんなに寄付を呼び掛けている」
 黄色いアヒルは、アレンビーらが母国で設立した癌の子供たちをサポートするための財団『Supporting Kids with Cancer』のシンボルマスコットだとわかった。
 ライルは1999年に初めて白血病に襲われ、それを克服して2004年にプロ転向。2007年に米ツアーにデビューした。だが、2012年に2度目の発症となり、再び母国で闘病生活へ。1度目も2度目も親身になってサポートしたのが、母国の先輩プロであるアレンビーだった。
 アレンビーの呼びかけで得られた経済的支援、温かい激励の言葉を得て徐々に回復していったライルは、病床から「みなさんのサポート、本当にありがとう」と笑顔でお礼を伝えるビデオレターを発信。
 奇跡的な回復を遂げ、2014年から米ツアーへ復帰した。

2度目の奇跡の復帰後、うれしそうに試合でプレーしていたころのライル。黄色い帽子はこのころからライルのシンボルになった。(photo: 舩越園子)

フツウがうれしいと笑った日々

 その年の秋、米ラスベガスで開かれた米ツアーの試合会場で黄色い帽子を被った一団を見かけた。
 それはライルと彼の家族、それにかつてアレンビーらが設立し、ライルも支援を受けた黄色いアヒルを掲げる財団の人々だった。そのころから黄色い帽子は米ツアーにおいてはライルの象徴、そして黄色はライルのシンボルカラーになった。
 うれしそうに練習場で球を打っていたライルに「回復してツアーに復帰できて良かったですね」と思わず声をかけた。
 「ありがとう。でも、回復してうれしいと言うより、フツウがうれしいんです」
 フツウに朝起きて支度をして試合会場に来ることができる。フツウに食べたり飲んだりできる。フツウに妻や子供たちと笑ったり会話したり一緒に歩いたりできる。そういう日常のすべてがとてもうれしいのだと彼は笑顔で語ってくれた。
 その後、ライル自身もアレンビーらが設立した財団に参加し、ライル自身が癌で苦しむ人々のために役立とうと、さまざまな活動に積極的に取り組み始めた。
 米ツアー選手たちの中には、そんなライルを応援しようと手を貸す心優しきプレーヤーも次々に現れた。アメリカの国民的スター選手であるリッキー・ファウラーもその一人。ファウラーはライルのことを「僕の親友」と呼んでいた。
 しかし、幸せな日々はさほど長くは続かなかった。昨年、ライルは3度目の白血病を発症し、またしても母国に帰って闘病生活へ。米ツアーもライルへの支援に取り組み始め、毎年1月を「ライルのための1月」と名付け、チャリティ月間に定めた。
 母国はもちろん、米国、そして世界のゴルフ界とファンがライルの3度目の奇跡の回復を祈った。しかし、7月末にライルは病魔との闘いに疲れ果て、最期の日々を家族と過ごす緩和医療に切り替えた。
 その発表の直後に開催されたブリヂストン招待では、選手やキャディ、関係者がみな黄色いリボンを付け、ライルが1分1秒でも長く家族との時間を過ごしてくれるよう祈った。
 そして翌週の8月8日、ライルは家族や友人たちに見守られ、天国へと旅立った。

ライルの死後も米ツアーの試合会場では彼を偲び、黄色い帽子を被っているメディアの姿もある。(photo: 舩越園子)

決して無駄にはしない

 ライルが残した最後のメッセージを妻のブリオニーが公開してくれた。
 「みなさんの温かいサポートをありがとうございました。世界は素晴らしいということの証でした。僕の時間は短かった。でも、癌で苦しむ人々と家族のために僕が思ったこと、僕が取った行動が役立つのなら、僕の短い人生は無駄ではなかったと思う」
 ライルが逝った翌日から今季のメジャー最終戦、全米プロが開幕した。ライルを「僕の親友」と呼んでいたファウラーは、初日はネイビーブルーのシャツを着てプレーする予定だったが、急きょ、黄色いシャツに身を包み、スタートホールにやってきた。
 「手持ちのウエアの中に黄色いシャツがあった。このシャツを着てジャロードを想いながらプレーしたい。めそめそしているとジャロードから蹴飛ばされるから、明るく元気にプレーしたい」。
 ライルが望んだ通り、彼の人生は決して無駄ではなかった。いや、人々は彼の人生を決して無駄にはしない。ライルがこの世に存在してくれたこと、彼の頑張りと勇気、彼が生きた36年間の壮絶な人生は、いつも大勢の人々の糧となり、勇気となり、そして元気になってきた。ライルをサポートしてきた人々、ライルがサポートしていた人々も、ライルからたくさんの勇気と元気をもらったはずだ。
 黄色い帽子、黄色いリボンを見るたびに、みんなジャロード・ライルを想い、頑張ろうと思う。これまでも、きっとこれからも――。