記事・コラム 2016.08.01

高原剛一郎の専門家しか知らない中東情勢 裏のウラ

【第五回】崩れだしたイスラム国と中東のこれから-中東世界を理解するために

講師 高原 剛一郎

大阪ヘブル研究所

1960年名古屋出身。大阪教育大学教育学部卒業後、商社にて10年間営業マンとして勤務。
現在では大阪ヘブル研究所主任研究員として活動。イスラエル、中国を中心とした独自の情報収集に基づく講演は、財界でも注目を浴び、外交評論家としても知られている。

ISの崩壊が始まった

IS(イスラム国)の終わりが始まった。
反IS有志連合の攻撃が、ISを確実に弱体化させている。衰退の理由はそれだけではない。
今ISは、本来の支持母体であるスンニ派戦闘員からも見限られ始めている。これでは勢力を維持できない。

「スンニ派」と「シーア派」の違いとは

ここでイスラム教のスンニ派とシーア派について簡単に説明する。
ムハンマドの死後、アラビア半島はイスラム教で統一された。信仰で結ばれた巨大集団を、ムハンマド亡き後、誰が引っ張っていくのかが問題となった。
まず彼には跡継ぎとなる息子がいなかった。
さらに、コーランによるとムハンマドは「最高にして最後の預言者」だから彼を超える人物は出てこないことになる。
そこで残された信者たちは、ムハンマドの代理人を選挙で選ぶことにした。
この代理人をカリフと言う。
初代から四代目までのカリフは皆選挙で選ばれたので、この時代を「正統カリフ時代」という(編注:632~661年頃)。アラブ世界の黄金期だ。今まで部族間で紛争明け暮れていたアラブ人が、統一共同体となった。

それに対して、アリーの血を受け継ぐ子孫だけが指導者だと主張する人たちが「シーア派」だ。
正式には「アリー・シーア(アリーの党派)」という。シーアとは、党派という意味だ。だからシーア派というと「殿様キングス」みたいな重ね言葉になる。

正統カリフの中でも特に人気が高いのは、四代目のアリーだ。彼はムハンマドの従兄弟で、彼の妻はムハンマドの娘なのだ。
しかし、統率力はそれほどではなかったのか、反対勢力によって暗殺されてしまった。
アリーの次にカリフを名乗ったのは、武力に優れたムアーウィアだ。
彼は選挙を経ないで、腕ずくでカリフにのし上がったから「正統カリフ」とは言わない。
さらに、彼は次のカリフを自分の息子に世襲させた。だが、ほとんどのイスラム教徒は寛容で、彼をカリフと認めた。この流れを認める人たちが「スンニ派」でイスラム教全体の9割を占めている。

イスラム教の少数派を国教としたイランの意図

イスラム教の中では1割弱のシーア派を国教にしているのが、イランだ。
ではなぜイランはシーア派を国教に採用したのだろう。
二つの理由がある。

第一に、アリーの息子がペルシャ帝国(現在のイラン)の王女を妻に娶ったからだ。絶世の美女だったと言われている。
先に述べたように、シーア派の特長はアリーの子孫に代理人を継がせる血統主義だ。
その子孫の血統の中にはイランのロイヤルファミリーの血が流れている。
つまりイラン人にとってシーア派の考え方は、ペルシャ民族の誇りをも満足させてくれるものなのだ。

第二に、イスラム世界の中で、イランがリーダーシップをとるためである。
アラビア半島で生まれたイスラム教は、当初はアラブ人の民族宗教だった。
だがイスラムが世界中に拡大していくに従って、アラブ人以外の信者たちが増えていき、やがてアラブ人を凌駕してカリフを名乗るように変わっていった。
中でもトルコ系民族のイスラム国家「オスマン帝国」は、400年間に渡って絶大な力を振るった。
このオスマン帝国はイスラム教スンニ派だった。
イランがスンニ派であるならば、オスマン帝国のカリフに従わねばならない。
だが、スンニ派とは袂を分かったシーア派を国教にするなら、オスマン帝国の支配下にならずに済み、自らの民族的な結束力を強化出来る。
だからイランでは、95%がシーア派である。そして中東諸国にシーア派政権を作ることが、国家戦略となる。

『ダルビッシュ 有』という名前

ちなみにシーア派の修行僧をダルビッシュという。
現在、大リーグで活躍するダルビッシュ有投手の父親は、イラン人だ。
「有(ゆう)」は「アリ」とも読める。
つまり、彼の名前は、初代シーア派指導者に由来する名前なのだ。

サダム・フセインに弾圧されたシーア派

スンニ派とシーア派は、実に血なまぐさい抗争の歴史を辿ってきた。なまじっかルーツが同じだと、こじれた時にかえって和解が難しくなる。
大塚家具の代表権を巡る骨肉の争いなど、今の日本でも見受けられることだ。
ましてや、宗教的な真理をを巡る対立には、妥協する余地がないのでとことんまで行ってしまう。
イラクではサダム・フセイン時代、シーア派は散々スンニ派に弾圧された。
フセインがスンニ派だったからだ。

やられたらやり返す! IS誕生のいきさつ

サダム・フセインが倒れた後、シーア派が多数を占めるイラク議会は、倍返しとばかりにスンニ派をいじめ抜いた。
これに対しイラクで生まれたスンニ派の逆襲運動が「イラクのアルカイダ」でこれが発展して現在のISとなった。
内戦状態のシリアは寄生虫のようなISにとって最適な宿主だった。
人口の7割がスンニ派だったからだ。
初めは助っ人だったはずのISは国土の7割を支配下に置いた。
シリアのラッカに首都を置いて、国家樹立宣言を出した。
2014年6月末のことだ。
これに飛びついたのが、現状に失望していた世界中の若いイスラム教徒だった。
ISは混迷するイスラム世界に示された究極の解答に見えたのだ。

裏切られた、若きイスラム教徒たちの希望

イスラム教徒の理想郷は、イスラム法に基づくイスラム国家だ。 それがシリアに出現したとアピールされたとき、純粋な若者たちは命をかけるに値すると考えたのだ。
だが、ISの本当の姿は理想とは余りにもかけ離れていた。
そこはイスラム教徒たちが互いに信頼する共同体ではなかった。
世俗的独裁体制と似たり寄ったりの密告社会だった。
特に冷遇されたのはシリアのスンニ派戦闘員だった。
ISの幹部はほとんどがイラク人をはじめとする外国人だ。
だが、シリア現地の情報収集、部族勢力との連携、住民への課税などの重要な任務はシリア人メンバーに頼っている。
だが、地域住民との距離が近すぎると見なされ、ISよりも住民により同情的と判断されやすい。
忠誠心を疑われると、生きて帰れない危険任務を命じられる。
私に入ってきた情報によると、外国出身の戦闘員の給料はシリア人戦闘員よりも数倍高い。
シリア人戦闘員は給料が低くても他に行くところがないと、足元を見られているのだ。
シリア人がアサドを憎むのは、抑圧的だからだ。だがISはシリア人にアサドと似たり寄ったりだった。
今年になってISは、給料を一律半額カットした。
生活のために参加していたシリア人には留まる理由はなくなった。
だからISからシリア人戦闘員の離脱者が後を絶たない。
シリア人戦闘員がいないと、シリアでの統治と軍事活動は大ダメージを受ける。
ISはゆっくりと衰退し始めたのだ。IS後のシリアは、スンニ派代表のサウジアラビアとシーア派代表のイランがつばぜり合いを始めるだろう。石油価格が上がらないのは、この二大産油国のつぶし合いが原因なのだ。