講師 舩越 園子
フリーライター
東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。
在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。
『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。
アトランタ、フロリダ、ニューヨークを経て、現在はロサンゼルス在住。
第71回
毎年4月に開催されるマスターズは、ゴルフのメジャー4大会の1つであり、米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルを舞台に繰り広げられるゴルフ界最大のフェスティバルでもある。
「ゴルフの祭典」と呼ばれるだけあって、歴代優勝者たちがグリーンジャケット姿で勢揃いし、年齢を重ねたレジェンドたちは若い選手たちの戦いを笑顔で眺める。
だが、1992年マスターズを制したフレッド・カプルスは、63歳になった今年の大会でも若者たちに交じって戦い、大勢のギャラリーから「ゴー、フレディ!」の声援を浴びながら、大会史上最年長の予選通過を果たし、健在ぶりをアピールした。
カプルスといえば、1990年代序盤の米ゴルフ界で最大人気を誇っていた国民的スターだった。ゆったりとした独特のリズムでドライバーを振り、絶大なる飛距離を誇っていたカプルスは、米国のゴルフファンからは「ブーンブーン」と呼ばれ、日本のゴルフ雑誌などでは「ブーンブーン丸」という枕詞が付されていた。
1992年マスターズ優勝を含むPGAツアー通算15勝を挙げ、1991年と1992年にプレーヤー・オブ・ザ・イヤーにも選出されたあのころは、カプルスのキャリアの絶頂期だったが、そんな華やかなアスリート生活を経験した一方で、彼の人生は文字通り、波乱万丈。流した涙はとめどなかった。
大学寮で「マスターズごっこ」をした日々
カプルスは1959年に米ワシントン州シアトル生まれだが、彼の祖父はイタリア系移民で、本来のラストネームは「コッポラ」だった。米国に移住後、「コッポラ」を米国の人々が発音しやすいよう「カプルス」に改め、シアトルの地に根付いたそうだ。
カプルスの父親はシアトルの公営のリクリエーション・パークを整備する事業に携わり、カプルスは幼いころから父親が扱っていた公営パーク内のゴルフ場を「遊び場」にして、自己流で腕を磨いていった。
ハイスクールの大会で好成績を出し、奨学金でテキサス州のヒューストン大学へ進学。ドミトリー(寮)で同室になったのが、現在、米CBS局でトップ・ゴルフアナウンサーとして君臨しているジム・ナンツとプロゴルファーのブレイン・マカリスターだった。
「僕らは3人とも、大学に入学したときから、それぞれの夢を抱いていた。ブレインと僕の夢はプロゴルファーになること、ジムはゴルフ中継を担当するアナウンサーになること。
ジムと僕は、よく寮の部屋の中で、2人で“マスターズごっこ”をした。最終日最終ホールで僕がウイニングパットに臨み、それを沈めて優勝するシーンをジムがアナウンサーとして伝えるという真似事を、僕らは夜な夜な本気でやっていた」
しかし、カプルスはいつしか大学生活に不満と焦りを感じるようになり、親友たちにも大学にも一言も告げずに寮を抜け出し、雲隠れした。内緒で「脱走」した理由は、事前に告げれば、両親に連絡が行き、プロゴルファーへの道を阻止されると思ったからだそうだ。
「僕はカリフォルニアの叔母の家にもぐり込み、毎日ゴルフの練習に精を出し、1980年の秋、PGAツアーのQスクール(予選会)に挑んだ。最終日の前夜、ずっと連絡を絶っていた父に電話して、プロゴルファーになってPGAツアーに出るつもりだと告げたら、いきなりガチャンと電話を切られた」
父親から激怒されても、カプルスは自身の意思を貫き、Qスクールを突破して1981年からPGAツアーに参戦開始。1983年ケンパー・オープンで初優勝を挙げると、次々に勝利を重ね、1992年マスターズを制覇してビッグスターの仲間入りを果たした。
もちろん、カプルスのマスターズ優勝をTV中継で伝えたのは、CBSアナウンサーとして活躍し始めていた親友ナンツだった。
愛する人を次々に失った日々
しかし、そんな夢見心地の時間は、長くは続かなかった。ヒューストン大学時代に知り合い、後に結婚した妻デボラとは、マスターズで優勝した1992年ごろから不仲になり、翌1993年に離婚。
その翌年、最愛の母バイオレットをがんで失い、1997年には、かつてカプルスがプロゴルファーになることに猛反対したものの、その後は誰よりも温かく応援してくれた父親が、白血病でこの世を去った。
孤独になったカプルスは、2001年、新たな恋人タイスと再婚し、ようやく笑顔を取り戻した。だが、その3年後の2001年、前妻デボラが、かつてカプルスと結婚式を挙げた教会の屋根から飛び降り自殺を図り、カプルスの心を大きく揺さぶった。
それでもカプルスは、タイスと彼女が連れてきた子どもたちとともに暮らす生活に感謝し、家族のために奮闘し、さらなる勝利を重ねていった。
だが、かねてからの腰痛は年々悪化して試合を休みがちになり、2009年には愛妻タイスが乳がんを患って、この世を去った。
それでも間を向いている日々
愛する家族を次々に失ったカプルスだが、彼はそれでも前を向いていた。失意の底にあったときでさえ、彼は胸を張って歩くナルシスティックな姿勢を決して崩さず、優しい笑顔をたたえていた。
タイスが残していった子どもたちを我が子として育て挙げた一方で、カプルスは亡き母「バイオレット・ソービック・カプルス」の名を冠した財団を創設。自分と同じように愛する家族を失って辛い思いをしている人々を癒し、とりわけそうした子どもたちに笑顔を取り戻させてあげたいと願うようになった。
以後、カプルスは毎年、「フレッド・カプルス・インビテーショナル・チャリティ・トーナメント」を開催し、地元シアトルの病院やがん関連の施設に得られた収益の全額を寄付している。
重い傷病と向き合っている子どもたちの願いを叶える「メイク・ア・ウィッシュ・ファウンデーション」の活動にも積極的に参加。「僕ができることなら何でもやりたい」と熱く語るカプルスは、社会貢献活動に余念がない。
もちろん、ゴルフへの熱意は今でも失っておらず、50歳になった2010年からはシニアのチャンピオンズツアーに参戦し、通算14勝を挙げている。
そんなカプルスだからこそ、悪天候による不規則進行となった今年のマスターズで若い選手たちがすっかり疲弊していた中、63歳にして最年長予選通過を果たすことができたのだろう。
「僕は、大好きなこの場所をエンジョイしている」
どんなときも、何に対しても、前向きで全力投球。そんなカプルスの存在と彼のゴルフを大勢のファンがエンジョイし、彼の社会への貢献に、たくさんの人々が心から感謝している。