話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!
どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。

【出演番組一部抜粋】
情熱大陸
今回は【湘南藤沢徳洲会病院 機能的神経疾患センター長】山本一徹先生のインタビューです!
湘南鎌倉総合病院にて初期研修をした理由。離島医療にて得られた経験。
留学した経緯やどのようにして手技スキルを高めていったのかなど、語っていただきました――。
テーマは 第1回「学生時代を謳歌した典型的な駄学生でした」をお話しいただきます。
プロフィール

名 前 | 山本(やまもと) 一徹(かずあき) |
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病院名 | 湘南藤沢徳洲会病院 |
所 属 | 機能的神経疾患センター(機能神経外科) |
資 格 |
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学 位 | 博士(医学) |
経 歴 |
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医師を目指すー
ー医師を目指したきっかけをお聞かせください。
17歳のときに衝撃的なビデオと出会ったことがきっかけです。これは機能神経外科との出会いでもありました。デアゴスティーニの『インサイドヒューマンボディ』という雑誌のオプションで購入できるビデオを父が買ってくれたのですが、その中にパーキンソン病の患者さんの脳を手術するという内容のビデオが入っていました。
その患者さんはたしか50代ぐらいの男性で、手が震え、ご自身で薬を飲むことも困難で、日常生活に大きな支障をきたしていました。しかし、その患者さんの脳を手術したところ、震えのみならず、体が動かない症状も改善されるなど、劇的に良くなっていました。
その患者さんが術後にフリスビーをしていたシーンも収められていて、そのような脳の手術をパーキンソン病の患者さんに行えるんだという衝撃や、こんな手術があるんだという衝撃を受けました。
さらに、脳ってすごいなという、脳という臓器に対する強烈な興味も覚え、私もこれをやりたいと思ったのです。その当時は機能神経外科という名称は知らなかったのですが、こういうことをしたいという願望が強くなり、そのためには脳神経外科医にならなければいけないということが分かりましたので、脳神経外科医になるためには医師にならなければいけない、そうすると医学部に入る必要があるという順序で、最終的にこうなりたいという目標ありきで、医師になりたいと考えました。
ーそれまではほかの職業を目指していたのですか。
医師の仕事には漠然と興味がありました。理由は特になかったのですが、小学生のときからなぜか医師の仕事に興味があったんですね。皆が皆ではないにせよ、私の周りで医学部を目指していた人たちは、小さい頃に病気がちで入院して医療に感銘を受けた、医師にお世話になったといった、自身の経験に基づく明確な動機がある者も多かったのですが、私にはそれもなかったです。父をはじめ、家族や親戚にも医師や看護師といった医療者、病院に勤務している人はいませんでした。
だから、非医療者である父がもしかしたら私に医療への興味を持たせようとしていたのかもしれませんし、どこかで興味を持たされていた可能性もあります。私自身には医師を目指すようなモチベーションはありませんでしたが、そのビデオで具体的なモチベーションが生まれました。そして実家のある札幌市にあって通いやすい、札幌医科大学に入学しました。
ー大学生活はいかがでしたか。
学生時代を謳歌した典型的な駄学生でした(笑)。自分の好きな授業はきちんと聞いて勉強していましたが、つまらないと感じた授業は眠気をこらえるといった、人には言えないような生活でしたね。でも興味のある授業は自然と耳に入りますし、集中して聞いていました。
私は昔から好き嫌いが激しく、興味のあるものに集中する性格なので、興味のないものにはとことん興味がないという感じでした。

ー興味があったのはやはり脳神経外科ですか。
そうです。学生時代はとにかく脳神経外科の授業を面白く聞いていました。
一度聞くと頭に入るので、興味を持たない周りの学生よりは脳神経外科には詳しくなっていたと思います。ただ一方で、それ以外は試験勉強のときに集中してやらないと知識が入ってこないような駄学生でした。
ー学年が上がってくると変わりましたか。
学年が上がってきますと、手術を見たいといった方向に興味が向いてきました。やはり講義だけではつまらなかったので、授業を抜け出して、手術の見学に行ったりしていました(笑)。
これは真似をしないでいただきたいです。
ー部活動には入っておられましたか。
柔道部に入っていました。柔道を始めたのは大学に入ってからですが、かなりのめり込みましたね。大学生活は柔道部で身体を鍛えつつ、日中は駄学生といった日常でした。もともと格闘技が好きだったので柔道部に入ったのですが、柔道にも集中して取り組んでいました。
私は一本投げて、相手を背中から落として綺麗に決めるという柔道ではなく、相手から「参った」というギブアップを求める柔道が好きだったので、自分のこだわりの柔道をしていました。医学部の体育会の大会としては全医体が一番大きな大会ですが、この期間は試験勉強と被るので、出られる大学がどうしても少なくなります。そのため、東医体、西医体のほうが規模の大きな大会になるんですね。私は東医体で個人でも団体でもメダルを取っていました。
ー段位も取られましたか。
二段まで取得しました。三段の試験も受けようとしたのですが、修行年限が少し足りなかったんです。それで三段の試験は受けられず、そのまま引退しました。
ー初期研修先の病院を探し始めたのはいつですか。
高学年になってからですね。高学年になってくると、皆が初期研修先を選び始めるのですが、私は既に動き始めていた友人に見学に行った先々の感想を聞くという情報収集から始めました。私としては飛行機の中で「お医者様はいらっしゃいますか」というコールがあったときに名乗り出ることができない医師にはなりたくなかった
ので、そういう基礎力を身につけられる病院で初期研修をしたいと思っていました。
