記事・コラム 2025.09.16

プロフェッショナルインタビュー

第2回「公衆衛生ではなく臨床を選んだ理由 小児科医がリバプールで得た学びと海外での葛藤」シロアムの園 代表 公文和子先生

話題沸騰!数々の人気番組に出演している医師たちが語る
「キャリア」「信念」「未来」そのすべてに迫るインタビュー!

どのようにしてスキルを高め、逆境を乗り越えてきたのか?
日常の葛藤、医師としての信条、そして描く未来のビジョンとは――。


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【出演番組一部抜粋】
NHKプロフェッショナル仕事の流儀・情熱大陸

今回は【シロアムの園代表 小児科医】公文和子先生のインタビューです!
女性医師・小児科医として歩み続けた原点と海外への挑戦。
どんな経緯で海外に行ったのか。何を学び、何を得たのか!
シロアムの園の今後の展望など語っていただきました― ―。

第2回「公衆衛生ではなく臨床を選んだ理由 小児科医がリバプールで得た学びと海外での葛藤」をお話しいただきます。

プロフィール

プロフィール写真
名 前 公文(くもん)和子(かずこ)
事業名 シロアムの園 代表
所 属 小児科


経 歴
  • ■ 1968年に和歌山県和歌山市で生まれ、東京都で育つ。
  • ■ 1994年に北海道大学を卒業後、北海道大学病院小児科に入局し、北海道大学医学部附属病院、千歳市立病院、市立札幌病院、北見赤十字病院、新日鐵室蘭総合病院(現 製鉄記念室蘭病院)で小児科医として勤務する。北海道大学大学院でも学ぶ。
  • ■ 2000年にイギリス・リバプールに留学し、熱帯小児学を学ぶ。内戦後の東ティモールや内戦中のシエラレオネ、カンボジアの小児病院で医療活動にあたる。
  • ■ 2002年にJICAの専門家派遣により、ケニアで活動を始める。また国際NGOでも働く。
  • ■ 2007年に長女を出産する。
  • ■ 2015年に障害児やその家族の支援事業である「シロアムの園」を設立する。



シロアムの園 代表 公文和子先生 インタビュー


ー留学先にリバプールを選ばれたのはどうしてですか。

日本で臨床を6年経験していたものの、アフリカやアジアで臨床をするのはまた違うのかなと思い、そういう勉強ができる場所を探していたところ、イギリスのような宗主国は熱帯医学が進んでいて、リバプールに熱帯小児医学というコースがあることを知りました。小児科医ですし、熱帯医学と小児科学という組み合わせの熱帯小児医学を学べるところは多くないので、興味を持ち、リバプールに留学することにしました。

また、海外で働いていらっしゃる先生方に色々と相談させていただいていたのですが、多くの方から公衆衛生を勧められました。ただ、私は公衆衛生には違和感があったんですね。そのときに一人の方との出会いがありました。今は長崎大学の教授でいらっしゃる方なのですが、その彼が大きなきっかけです。当時の彼はJICAの専門家派遣でガーナにいたのですが、もともとは小児科医で、リバプールの熱帯小児医学のコースは臨床も勉強になったし、行ってよかったと言っていたので、私も面白そうだと感じ、リバプールに行くきっかけになりました。




ーケニアで働くきっかけはなんだったのでしょうか。

先ほどお話しした長崎大学の教授が、私の人生の中で割と大きなキーになっていますね。私はリバプールではマスターのコースにいましたが、彼はPh.D.のコースに入って、またリバプールに戻ってきたので、同じシェアハウスで生活していました。たまたまですが、東ティモールで働いていたときの私の前任者が彼だったんです。それでリバプールを出るときに仕事を探していると、彼がケニアでの仕事を紹介してくれました。それが最初の仕事でしたね。彼には本当に色々なところでお世話になりました。




ーイギリスは熱帯医学が進んでいるんですね。

アメリカは新しい国なので、植民地をあまり持っていないんですね。だから熱帯医学はあまり進んでおらず、逆に公衆衛生学が進んでいます。海外に出るときに公衆衛生で行くのか、臨床系で行くのか、リサーチで行くのかは分かれるところなのですが、多くの人たちが公衆衛生で行くんです。私の場合は公衆衛生は少し掴みどころがないと感じていたので、公衆衛生には進みませんでした。今なら公衆衛生で学びたいことは色々とあるのですが、当時はあまり関心を持てなかったんです。

一方で、ヨーロッパでは植民地を多く持っていたからこそ進んだ医療というものがあります。中でもイギリスはかつての大英帝国ですから、そういう意味では熱帯医学が一番進んでいる国です。それでイギリスを選びました。

公文先生写真





ー海外で働いてこられた中で、一番大変だったことはなんでしょうか。

一番印象深いのは滞在期間はとても短かったのですが、シエラレオネです。日本で6年間、臨床をしてきましたし、その後に熱帯小児医学も学びましたので、「何かできるかな」という気持ちで行ったのですが、自分のできることはほとんどないんだなという打撃を受けました。

内戦地の子どもたちはもともとのベースがとても低く、感染症も重度なので、毎日、何人も亡くなります。それで自分の気持ちを殺さないと臨床できなかったんです。日本だと治るような病気でも、シエラレオネでは治らずに亡くなっていくことに心を痛めましたし、自分の中で色々と線引きをしてシャットダウンしないといけませんでした。

そういう中で、自分ができることは本当に少ないのだと気づかされたことが辛かったですし、一番の教訓になりました。シエラレオネのあとはカンボジアの小児病院で半年ほど働きました。心身ともに弱っていた時期でしたが、アジアですし、戦争地でもないので、それなりに仕事はできました。カンボジアでの経験も大きかったし、学んだことも多くありますが、人生の中でどれだけ大切だったのかと考えると、やはりシエラレオネだったのではないかと思います。




ーシエラレオネで心も身体も折れたという経験をされても、現場から離れようとは思われなかったのですか。

シエラレオネで倒れてしまったときは恐らく出血熱だろうということで、ドイツに緊急搬送されました。そのまま荷物も送り返されてしまったので、戻ることができずに終わってしまったんです。それで中途半端に蹴落とされてマイナスな気持ちになり、そこから立ち上がるきっかけも作れないぐらい、やり残しだらけで帰ってきたのがドイツやイギリスでした。

そのときにJICAの仕事を一緒にしないかと誘ってもらいました。それはリサーチの仕事でしたが、このままリサーチに行ってしまうと、自分の中でわだかまりが残りそうだったので、「少し臨床をしてから行かせてください」と頼んだんです。それでカンボジアに行くことになり、たまたま受けてくれる小児病院があったので、そこで6年間働いてからケニアに行きました。ケニアでの最初の仕事はやはりリサーチやリサーチャーの育成でしたので、精神的にはある意味、楽と言えば楽でした。