記事・コラム 2022.05.15

ゴルフコラム

【第59回】コロナ禍の犠牲者のために尽くした素晴らしき選手

講師 舩越 園子

フリーライター

東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。
百貨店、広告代理店勤務を経て1989年にフリーライターとして独立。93年渡米。

在米ゴルフジャーナリストとして新聞、雑誌、ウエブサイト等への執筆に加え、講演やテレビ、ラジオにも活動の範囲を広げている。

『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。

アトランタ、フロリダ、NY、ロサンゼルスを経て、現在は日本が拠点。

米ツアー選手のウィル・ザラトリスと言われても、日本のゴルフファンの大半は「全然ピンと来ない」と感じることだろう。

しかし、「松山英樹が優勝した2021年マスターズで、最後まで松山に食い下がり、2位になった若い米国人選手」と言われたら、「ああ、あのときの、ひょろっとした体型でちょっと気の弱そうな雰囲気のあの選手のことか」と思い出す方々は多いのではないだろうか。

そう、昨年のマスターズ最終日、松山に追いつき追い越すチャンスがあった選手は、ザラトリスただ一人だった。しかし、オーガスタ・ナショナルのサンデー・アフタヌーンの戦いを見守っていたほとんどのファンは「ウィル・ザラトリスって誰?何者?」と思っていたに違いない。

当時のザラトリスは、まだPGAツアーの正式メンバーにすらなっておらず、「スペシャル・テンポラリー・メンバー」という正式メンバーの前段階のステイタスでマスターズに出場していた。そんな彼が世の中に知られているはずはなかったのだ。

そんな状況にあったザラトリスが、もしもあのとき松山を打ち負かしていたら、スペシャル・テンポラリー・メンバーによるマスターズ優勝は大会史上初の珍事となり、マスターズ初出場で初優勝は1979年のファージ・ゼラー以来の驚きの出来事となるはずだった。

結果的には、そうはならず、あの大会は松山の優勝で幕を閉じ、ザラトリスは1打差の2位に終わったが、あのマスターズはザラトリスの存在が初めて世界に知れ渡った大会となった。

だが、米国のジュニアゴルフ、大学ゴルフの世界では、実を言えば、ザラトリスはずっと以前からとても有名だった。

ギャンブル的にチャレンジ開始

ザラトリスは米カリフォルニア州サンフランシスコ生まれだが、幼いころから、テキサス州ダラスのゴルフ場でレッスンを受けていた。フットワークが良かったのは、空軍パイロットだった祖父や、やはりパイロットだった父親、叔父、それに陸上選手として活躍した母親の下で育ち、米国内をアクティブに動き回っていたおかげだったのかもしれない。

テキサス州のジュニアゴルフ界では、地元育ちのジョーダン・スピースと他州からやってくるザラトリスが「2強」と呼ばれていた。だが、2人はライバルというより、とても仲良しだったそうだ。

2014年全米ジュニアを制し、米国ジュニア界のナショナル・チャンピオンになったザラトリスは、ノース・カロライナ州にあるゴルフの名門ウェイクフォレスト大学を経て、2018年にプロ転向。

下部ツアーのコーンフェリーツアーで2020年に1勝を挙げると、そこから先は、出場資格も何もないノーステイタスの状態で、マンデー予選や推薦を頼りにPGAツアーに挑み始めた。

ギャンブル的にPGAツアー挑戦を開始した選手と言えば、その代表的な成功例となったスピースの歩みが思い出される。ジュニア時代から仲良しだったスピースの挑戦に感化されて、ザラトリスも同じチャレンジをしたのかもしれない。

謙虚に感謝

2020年の秋。コロナ禍で9月に延期開催された全米オープンに地区予選から挑み、6位タイに食い込んだザラトリスは、その後のPGAツアーの大会でもトップ10入りを重ね、ついにはPGAツアーのスペシャル・テンポラリー・メンバーに格上げされた。

松山英樹と最終日に競り合い、単独2位になった2021年4月のマスターズにも、ザラトリスはスペシャル・テンポラリー・メンバーのまま出場していたし、翌月の全米プロでも彼は8位タイに食い込んだ。

世界ランキングでは、すでにトップ30に数えられ、実力的にはトッププレーヤーの仲間入りを果たしたザラトリス。しかし、彼はコロナ禍ゆえのPGAツアーの規定に大きく左右され、優勝できない限りはPGAツアーの正式メンバーへ昇格できないという状態のまま、2021年シーズンを終えることになってしまった。

正式メンバーになれない限りは、いくら試合で上位入りを重ねても、フェデックスカップのポイントを稼ぐことができず、本来なら楽勝で出場できていたはずのシーズンエンドのプレーオフ・シリーズにも、最終戦のツアー選手権にも出られずじまいとなった。

それは、コロナ禍の影響をまともに受ける形になった悲劇だったが、PGAツアーの先輩選手たちは、そんな彼を優しい視線で見守っていたようで、選手投票で選出されるルーキー・オブ・ザ・イヤーにはザラトリスが選ばれ、「とてもうれしい」と笑顔を見せた。

「かつての僕の目標はコーンフェリーツアーで年間3勝を挙げることだった」が、マスターズで優勝争いを演じて2位になり、全米プロでも8位になり、新人賞を授かったことは「とてもありがたいことです」と、ザラトリスは謙虚に感謝した。

子どもたちのために

コロナ禍の影響を大きく受けたザラトリスは、出られるはずのビッグ大会に出られず、稼げたはずのビッグマネーを稼ぎそこない、プロゴルファーとしてはコロナ禍の犠牲になったと言えるわけだが、そんな彼が、コロナ禍の影響をもっと大きく受けている人々のことを、人一倍、気遣っていることに感銘を受けた。

ザラトリスは米国中西部のシモンズ銀行とアンバサダー契約を結んでおり、同銀行はPGAツアーの下部ツアーの大会、シモンズ銀行オープンのタイトル・スポンサーを務めている。

その大会は毎年、収益の一部を貧困や暴力などに苦しむ子どもたちのための財団へ寄付しており、その財団にとってその寄付は経済的な頼みの綱だったそうだ。

しかし、コロナ禍で同大会が中止となったことで、寄付が途絶えてしまい、財団は経済的に困窮状態に陥った。

財団の窮状を知ったザラトリスは、なんとかして寄付金を集めようと考え、飛距離とパットを競い合うチャリティ・ゴルフ大会「ドライブ・パット・ドゥグッド(Drive Putt DoGood)」なるイベントを開催。5万ドルをかき集め、財団と子どもたちを救ったのだそうだ。

まだ自分自身がPGAツアーの正式メンバーにもなれていないときから、子どもたちのため、社会のために尽くしてきたザラトリスにゴルフの神様も感銘を覚え、彼の成績をみるみる引き上げていったのかもしれないと思えてくる。

今季は晴れて正式メンバーとしてPGAツアーに挑んでいるザラトリス。初優勝はまだ達成されていないが、きっと彼に助けられた子どもたちの祈りが天に届き、近い将来、素敵な勝利が彼にもたらされるのではないだろうか。