記事・コラム 2025.02.14

至高のネットワークで洗練されたチーム医療を

【第二回】救急医療に出会う

講師 上田 敬博 教授

鳥取大学医学部附属病院 高度救命救急センター

1971年に福岡県福岡市で生まれる。1999年に近畿大学を卒業後、東神戸病院で研修医となる。2001年に大阪府立千里救命救急センター(現:大阪府済生会千里病院千里救命救急センター)でレジデントとなる。2006年に兵庫医科大学病院救急・災害医学教室(救命救急センター)で助教となる。2010年に兵庫医科大学病院救命救急センター副センター長に就任する。2014年に兵庫医科大学大学院を修了する。2016年にRobert Wood Johnson Univ,Hospital外傷センターに留学する。2018年に近畿大学医学部附属病院救命救急センターに講師として着任し、熱傷センターを設立する。2020年に鳥取大学医学部附属病院救命救急センターに教授として着任する。2021年に鳥取大学大学院医学系研究科救急災害医学教授を兼任する。2022年に鳥取大学医学部附属病院高度救命救急センター教授に就任する。

日本救急医学会救急科専門医・指導医、日本熱傷学会熱傷専門医、インフェクションコントロールドクター、日本DMAT隊員など。

救急医療に出会う

ー 当初、九州大学の心療内科への入局を考えてらっしゃったことのことですが、その後、東神戸病院で研修されたのはどのような経緯があったのでしょうか。

九州大学の心療内科は非常に歴史があります。

1961年に九州大学医学部附属病院(現九州大学病院)に精神身体医学研究施設が附設されたのですが、これは日本で初めての施設であり、初代教授は日本の心身医学のパイオニアである池見酉次郎先生でした。当時、教授は久保千春先生で、のちに九州大学病院長や九州大学総長を歴任された方です。

そこで入局手続きの書類を書いたのですが、そのときの担当の先生が「最終的にはジェネラリストというか、内科全般を診たいのであれば、一般的な内科全般を勉強してから心療内科に来たほうがいいんじゃないか」とアドバイスしてくださいました。

そして、その先生が「今、折角、神戸にいるのなら、神戸の病院で多くの症例を積んだほうがいいよ」とおっしゃったので、「そうですね」と納得して、神戸の病院で研修することにしました。

神戸市内にもハイボリュームセンターはいくつかありますが、私としては阪神大震災で実働的に貢献した病院である東神戸病院を選びました。

東神戸病院は東灘区にある病院ですが、阪神大震災では東灘区は最も多くの犠牲者が出ました。東神戸病院は停電で呼吸器も作動できない状況になっても、呼吸器の代わりに皆で3時間交代で手もみをして人力作戦で頑張ったという、本当に最前線で力を尽くした病院だったんです。私としてはそういう病院で研修したい、働きたいと思いました。

大学入学時卒業時写真
(写真左)大学入学時 1994年 (写真右)大学卒業式 1999年3月



ー 現在のような初期研修制度がない当時、どういう研修をなさったのですか。

研修
研修医1年目 東神戸病院医局にて

当時の東神戸病院ではストレート研修に近い混合研修みたいな研修を行っていました。各専門科の上級医と研修医がペアになるという形です。

循環器疾患であれば循環器科の上級医と、呼吸器疾患であれば呼吸器内科の上級医と、脳卒中であれば神経内科の上級医とペアになり、そのペアで主治医として患者さんを診ます。

ペアを組んでくださった上級医は皆さん、優秀な指導医の方々でした。同期は10人いましたが、皆がそれぞれペアを組んでいますので、同期とはばらばらな形での研修でした。



ー 救急医療に出会ったタイミングはどのようなものだったのですか。

これは運命なのかどうか分からないのですが、東神戸病院の研修システムとして、救急車が来れば、手が空いている研修医は救急室に行かないといけないことになっていました。

それで、私が最初に救急室に行ったときの患者さんは心肺停止の状態でした。医師になったばかりなので当然ですが、何もできず、無力感しかなかったです。肩書だけが医師の私は全く使える存在ではないのだと鼻をへし折られた気がしました。

よく考えると、鼻すらなかったですね。そのとき、心肺停止の患者さんに対して全く何もできなかった自分が悔しく、救急をもう少し頑張ってみようかなと思ったことが救急を志したきっかけです。


ー そういうきっかけだったのですね。東神戸病院での救急研修はどのようなものでしたか?

東神戸病院では1年目の半年が過ぎた頃から集中治療室での研修が始まります。最低限度の技術などができてからのICU研修となるわけですが、私の場合は入職2カ月後ぐらいで、患者さんが急変されたのを機に前倒しでICU研修が始まりました。

そこから、とにかく重症の患者さんが当たってしまうんです。偶然ではありましたが、私がICUから抜けられないという状態になり、やはり救急や重症管理をきちんとしないといけないと思いましたが、それをずっとやっていこうとは考えておらず、ある程度できるようになりたいなというぐらいの気持ちでいました。



ー 東神戸病院での研修後は「大阪府立千里救命救急センター(現:大阪府済生会千里病院千里救命救急センター)」でレジデントになられたのはどうしてですか。

母校の麻酔科の教授は私が学生の頃から個人的にかわいがってくださっていて、どうしてそこまで親身になってくださるのかは分からなかったのですが、親代わりのような存在でした。

私がピンチと言いますか、進路を迷ったときには必ずタイミングよく声をかけてくださるんです。そのときも「外傷をきちんと診たい、重症管理を勉強したい、ICUをやりたい」とお話ししていたら、「千里救命のレジデント入職できるようにしていたから、明日千里に行ってこい」と言われたんです。

決して「自分の医局に入れ」とも「親の跡を継いで親孝行しろ」ともおっしゃらないし、その教授がいらっしゃらなければ、私のこういう人生はありません。その教授の口利きがあって、千里救命救急センターにレジデントとして入職しました。

ー 千里救命救急センターでのレジデントの日々はいかがでしたか。

千里救命救急センターは吹田市にあり、センターの近くには吹田ジャンクションがあります。

吹田ジャンクションは名神高速道路、中国自動車道、近畿自動車道が重なるところで、当時は非常に交通事故が多い場所でした。そのため、交通事故で運ばれてきた患者さんの緊急手術がほとんど毎日のようにあり、それにずっと入っていました。

外傷も手術をするケースが多かったですね。今ではありえないですが、当時は飲酒運転時の事故も少なくなかったので、カテーテルなどの侵襲的な手技の技術を学ぶ機会が圧倒的に多かったです。指導体制もしっかりしており、レジデントに対して「やっといて」ということはなかったので、良い研修を受けることができました。本物の三次救急を千里で初めて学び、見るに耐えかねない患者さんを受け入れざるをえないという思いも経験しました。



ー 5年間のレジデント生活で一人前になれたという実感はありましたか。

いえ、全くありませんでした。今も一人前になったという自覚はないですし、レジデントが終わったときはまだひよっこだという認識でした。