講師 上田 敬博 教授
鳥取大学医学部附属病院 高度救命救急センター
1971年に福岡県福岡市で生まれる。1999年に近畿大学を卒業後、東神戸病院で研修医となる。2001年に大阪府済生会千里病院千里救命救急センターでレジデントとなる。2006年に兵庫医科大学病院救急・災害医学教室(救命救急センター)で助教となる。2010年に兵庫医科大学病院救命救急センター副センター長に就任する。2014年に兵庫医科大学大学院を修了する。2016年にRobert Wood Johnson Univ,Hospital外傷センターに留学する。2018年に近畿大学医学部附属病院救命救急センターに講師として着任し、熱傷センターを設立する。2020年に鳥取大学医学部附属病院救命救急センターに教授として着任する。2021年に鳥取大学大学院医学系研究科救急災害医学教授を兼任する。2022年に鳥取大学医学部附属病院高度救命救急センター教授に就任する。
日本救急医学会救急科専門医・指導医、日本熱傷学会熱傷専門医、インフェクションコントロールドクター、日本DMAT隊員など。
目次
Q. 医師を目指した動機をお聞かせください。
美談は特にありません。
父、父の弟や妹、その子どもたちも医師という家族の中で育っており、医学部に行く以外の道がないという環境だったので、必然的に医師を目指していました。福岡市で生まれましたが、4歳のときに父の転勤で北九州市に移りました。
父はもともと外科医だったのですが、その後、北九州市で内科の医院を開業しました。普通は医師になりたいという人が医学部に行くのでしょうが、私は医学部に行きたいというよりも、どちらかと言うと「行かなくてはいけない」という義務感のようなものがあり、本当に医学部に行かないといけないのか、医師の仕事に向いているのかを考えるような熱い思いもなかったですね。そういう思いはむしろ浪人をしていたときに芽生えました。
Q. 小さいときはどのようなお子さんでしたか。
劣等感がありましたね。父は九州大学出身で、手先も器用でしたし、語学も堪能でした。
父のほかにも叔父や叔母、いとこたちも医師で、医学部に行かない人はドロップアウトという雰囲気のある家庭でしたので、多感な時期である中高生の頃は医学部に行くことが本当に正しいのかという葛藤がありながらも、でも行かないといけないんだろうなという自分が流されていくような気持ちを抱いていました。
Q. ラグビーの前にサッカーをなさっていたのですか。
私には部活動と勉強を両立するのは当たり前だという感覚があり、小学4年生から6年生まではサッカーをしていました。
それまでの私はかけ算の九九が最後まで覚えられなかったり、竹馬を作ることも作った竹馬を乗りこなすこともビリでしたし、「どうせ何やっても駄目なんだ」という劣等感しかない子どもだったんです。それで4年生のときにサッカー部に入ったのですが、そこで初めて自我の目覚めのようなものがありました。
サッカーを下手なりに続けていますと、ドリブルができるようになったり、ヘディングができるようになったり、リフティングができるようになったりします。人より遅くても、同じことをずっと続けているとある程度はできるようになるという成功体験と言えば大げさかもしれませんが、そういう気持ちになったんです。
そこからはチャレンジすれば時間がかかるかもしれないけれど、人に追いつけることができるのではないかというふうに、物事をポジティブに捉えられるようになりました。それが5年生のときですね。
Q. サッカーからラグビーに変えられたのはどうしてですか。
小学6年生のときに朝日招待ラグビーを観戦したことがきっかけです。朝日招待ラグビーは大学選手権での優勝チームと九州の社会人の選抜チームが春に試合をするというもので、その年は同志社大学を迎えて、北九州市の三萩野陸上競技場で行われました。今は小倉競輪場になっているところです。私の母が同志社大学の卒業生なので、チケットが手に入り、ラグビーが何たるものかも分からない状態だったのに、初めてラグビーの試合を観戦しました。
当時、同志社大学は大学選手権を3連覇中で、その中心選手が平尾誠二さんでした。平尾さんはもうお亡くなりになりましたが、そのプレーを観て、本当に感動しました。ルールも分からない小学生の私でしたが、平尾さんはとにかくかっこよく、光っていて、オーラが出ていましたね。
そこから完全にラグビーにシフトしていったんです。私も平尾さんと同じポジションをしたかったのですが、それは叶いませんでした。でも、それなりに夢中になりました。平尾さんは同志社を卒業後、神戸製鋼に入られ、日本選手権7連覇を達成されます。一番強くて、一番輝いていた平尾さんを自分が中高生のときに見ていたことは大きな刺激になりました。
Q. 大学でもラグビー部に入られたのですか。
大学の部活動には入らず、社会人のクラブチームに入りました。そのチームは大阪では「第3シード」で、つまり3番目に強いチームだったんです。
チームメンバーには日本代表だった人や、同志社と同じぐらい強かった大阪体育大学でレギュラーだった人もいました。私としては強いところでやりたいと思っていたわけではなく、偶然入ったチームが強かっただけでしたので、「しゃーなし」でした(笑)。
花園や国立に出るという目標はなかったのですが、そのメンバーの中でレギュラーを取れれば、自分の力はある程度はあるということですので、レギュラーになるということを目標にしていました。そして、元ジャパンの人たちといいプレーをして、いいゲームをするということが楽しみだという感覚でやっていました。
Q. 大学時代に阪神大震災に遭われたのですね。
私は当時、大学1年生で、大阪府内に住んでいたのですが、私の住まいのあったところも震度5から6の揺れがありました。災害で生命を失うという感覚や危機に迫るものがあり、「対岸の火事」ではなく、初めて災害で生命を脅かされるという経験をしました。ただ同時に、被災者に対してはまだ何もできないのだという無力感もありました。
Q. 大学卒業後、最初は心療内科を志していたそうですが、これはどういう理由がおありだったのですか。
外科医になるなら糸結びもしないといけないし、修練も積まないといけません。全てが不器用な私は外科系は向いていないと思っていました。
また、内科医になるなら膨大な勉強をしないといけません。勉強してもうまくその成果を出せないので、内科系もついていけないのではという危惧もありました。心療内科に修練や勉強が不要だと思ったわけではありません。むしろ高校生のときから大学生になる頃まで、私の中にこれからの日本社会ではストレス社会が強くなり、心身症などの心から来る病や心療内科系の患者さんが増えていくのではないかという予感があったんです。
大学に入学以降、授業を受ける前から精神医学や心療内科の医学雑誌を買いあさって読みまくっていました。やはりこれからは心療内科のニーズが高まるはずだと確信し、さらにこの分野に興味を持つようになりました。それで心療内科医を目指して、まずは九州大学の医局に相談に行きました。